『攻殼機動隊STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society [DVD]

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society [DVD]

(ネタバレを含みます)
 正月休みに入ってようやく『攻殼機動隊STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』を観ることが出来た。少子高齢化の問題だったり難民問題だったり児童虐待だったりと現代社会にまつわるあれやこれやのトピックが盛り沢山な感じ。攻殼シリーズに関しては、士郎正宗の原作は未読だし押井版の劇場公開作はDVDで観たもののSTAND ALONE COMPLEXのシリーズは1ST、2NDともいずれもほぼスルーという状況だったりして、当然この作品の一連の流れの中での適切な位置づけは出来ないし包括的な見方も不可能である。というフォロー(逃げ口上)をまず入れつつ、子どもたちの受難みたいなところが観ていて気になった。「およそ糞尿は貨幣ではありえないが、すべての貨幣は糞尿でありうる」みたいなことを、確か故マルクス師匠が生前『資本論』のどこかで仰られていた記憶があるけれど、攻殼シリーズにおける子どもたちの受難史のいくつかのヴァリエーションをつらつら思い出すにつけ、このマルクスの言葉もなんとなく同時に思い返していた。
 押井守の『イノセンス』ではセクサロイドの身体に子どものゴーストを違法コピーする心身問題的なトピックが扱われていたけれど、子ども(の身体と魂)を巡るこの問題系は本作では、その発想において宗田議員の推進するソリッド・ステイト・システムとカ・ルマ将軍の企てるBCテロとにそのまま引き継がれているように思う。前者は、そのエスノセントリズム的な愛国イデオロギーのナルシスティックな器として、子どもの身体を工学的な洗脳が施されるべき部分と見なすことに疑問を感じていない(クライマックスに描かれる、聖庶民救済センターに集められ洗脳される三千人余りの子どもたちの描写は、『イノセンス』の要塞船舶みたいな場所に幽閉された子どもたちの姿とぴったり照応しているのだろう)。後者における子ども時限爆弾というような発想も同様で、前者の思想を正確に反転させたかたちでそこで問題となるのは移動して滞在する一種の乗り物としての子どもの身体(外形)であって、魂やゴーストといった領域はテロルの計画から完全に捨象されうる部分として一顧だにされることはない。宗田、カ・ルマ双方の思想に通有する心身二元論的な(しかし、まったく葛藤の素振りを示さない、悪い意味でブレの無い)この発想や動機は、対象を(ここでは、子どもを)、いわばその価値の実体(ゴースト)と価値衣装(身体、義体)との二つの部分に区切ってきわめて抽象的に把握しているだろう(相対的価値形態としての諸商品の無数の整列(可算的な単位としていくらでも交換可能な身体、義体)と一般的な等価形態となった貨幣形態(ゴースト)、みたいな二分法的な経済学的把握とでも言うような)。攻殼における子どもたちの受難はイデオロギーとか倫理的な面にあるというより先に、まず正確に、利殖や横領、不正取引のような経済活動の対象として(のみ)取り扱われることへの痛みとしてあるような気がする。生ける資本、労働力商品としての子どもの魂という感じ。
 ところで、今回の事件の明示的な黒幕であるコシキという男(「傀儡廻」の正体という認識でいいだろうか?)は、しかし宗田議員、カ・ルマ将軍とはちょっと異なるスタンスで子どもたちを見ているようだ。後二者が子どもの実存(?)の内部において淫猥で乱暴な価値形態論の展開を実践しているところで、コシキは社会的な階層の間に、ある種の分割と融合を作ろうとする。貴腐老人という経済的にも社会的にもデッドストックとなった(非)存在を「干乾びたブドウ」のような抜け殻の器と見立て、そこに戸籍ロンダリングで調達した(1万7千人もの)子どもたちを盛り込もうとする。そこでは、子どもたちの存在それじたいがソリッド・ステイトという価値衣裳の実体となることが求められているのだろう。使用価値に対する交換価値、つまりより端的に、貨幣としての子ども。「すべての貨幣は糞尿である」とはつまり、商品流通のサイクルにおいて吐き出される貨幣はその出自、出所の貴賎をいっさい問題としないということだろうけれど(「胃袋通れば糞味噌いっしょ」)、その時子どもたちの存在は限りなく誰かの垂れ流す糞尿へと近づいている。行方不明となった男の子が、蝿の飛びまわる貴腐老人のアパートの部屋の中でトグサに保護されるくだり。
 この作品を観る人にとってコシキが企てた計画が実に厄介なものに感じられるところは、不法な電脳施術とか記憶の改竄というような人権的、倫理的に見て明らかにマイナスな面に比しても、児童虐待という今そこにある危機に対処するその緊急外科治療的な側面が、あまりにも魅力的に見えてしまうところにあるかもしれない。作品の結末においても、トグサや荒巻は明確な結論を出しかねている(素子やバトーは、もとより事件それじたいの固有の意味にはあんまり関心がないように見える。この事件はその意味で、結果的に、トグサの事件だったんだろうと思う。『イノセンス』がバトーの事件だったように)。この作品には「敵」がいない(敵というものがありえない)というようなことを誰かのブログで読んだのだけれど、その指摘はあらためてまっとうだと思った。
 しかし思うのだけれど、子どもは糞尿として生まれてくるわけだし、また誰もが広義の糞尿を生産しながら生を営んでいくわけでもあるし(このブログにおける文章も、無論、糞尿の小さな欠片くらいではあることを願う)、そして、子どもそれじたいも糞尿を厭うことはないはずだけれども、しかし少なくとも、その固有の生における活動が見知らぬ誰かにとっての都合の良いそれであってはならないこともまた、確かではあるだろう。
 にしても、とても面白かった。ので、まだ何度も観返すつもり。