ベケット『マーフィー』

マーフィー

マーフィー

 久しぶりに小説を読んだけど、めちゃくちゃ変な作品で面食らってしまった(ベケットはじめて)。以下本編とは関係のないざれごと。
 読み始めてまず、(体感的には)もうほとんど一行ごとに連発される警句というか箴言というかペダントリックな地口の洪水にくらくらしてしまう。巻末の訳注は充実していて作者がそのレトリックで何を言おうとしているのかを理解するのに便利だったけど、そのつどあまりにも律儀にせわしなく本文と注釈のあいだをいったりきたりしていたら息が切れそうになったんで途中から、あーやめやめ、この読み方超やめーってことにしたらちょっと楽になった。手口の知れないはじめて読む作家の作品の特に出だしなんかは、接するこちらの姿勢もまだふらふらしてるんだからまずは作者の言葉(この場合訳者の訳文)の呼吸にこちらの呼吸を合わせるようにして、当面わからないくだりが出てきてもわからないままでバンバン流していくほうが、立ち止まりながら文章をいちいち逐語的に理解しようとするよりも結果的によろしいように思った(と、教訓をひとつゲットしたと思ったんだけど、そのことと、この作品を理解できたかどうかはぜんぜん別個のはなしだったみたいだ。教訓、あまりあてにならん)。
 作者の厚みのある豊かなペダントリとちょっと奇天烈な地口の軽妙さにしょっぱな(アレルギー反応気味に)圧倒されてしまったわけだけれど、冒頭直後にはまた別種の風変わりな言語実践(遊戯)に出くわすことができる。主人公マーフィーの恋人で元娼婦のシーリアが、行き違いになりつつある二人の仲の現状報告というかたちで祖父のケリー氏の部屋に赴いた場面。ベケットの筆はそこで、シーリアによる恋人同士の二人の空間に起こったできごとの述懐から「述懐」という行為のもつ主観性を抜き去り(当事者として報告するはずのシーリアの特権的な肉声を抜き去り)、それに代えて、どこからともなくぬけぬけと叙述の場に闖入してきた匿名の話者が三人称の視点から当の二人に起こったできごとの情況を描写するという処理をほどこしている。この身元不明の不埒な話者の存在とは、物語に書かれているできごとの言葉をメタな視点からあらかじめみずからの言葉として指呼するという図々しさをまったく隠そうとしないいくつかの徴候を根拠に、ごく簡潔に作者と名指しできるものだろう。場面において進行中であるシーリアとケリー氏の会話のやり取りは基本的には愚直な直接話法によって交わされているんだけれど、二人の話柄がシーリアとマーフィーの身の上に起こった近過去の具体的な情景に及ぶつど、シーリアの生の声は消去されてしまい、(ケリー氏の部屋における)場面の現在性じたいも話者が間接話法的な立場から代理的に語るこのいまひとつの場面に移設されてしまう(声と現在が奪われる。ていうか、それらの一回性や単一性といったものが「正当にも」ないがしろにされるって感じ)。かてて加えて場面にぐだぐたかつ喜劇的な活気を与えるのは、この非人称を装った話者による代理的叙述の現在に対して、それをあらためてシーリアの語りの現前性を再担保する恰好で、あたかもそれまでシーリアの言葉と現在が作者によるなんらの容喙も介入もなかったかのようにシーリア目掛けて合いの手やツッコミをちょいちょい挟むケリー氏の発話の存在によるものだろう。シーリアから作者に奪われた語りの言葉と現在が読者であるケリー氏のツッコミによって再度作中人物の側に取り戻される感じがある(この素晴らしくぐだぐたな喜劇っぽさは、映画におけるナレーションに対して本気でツッコミを入れる劇中人物みたいなものの滑稽さを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。もっとも、ベケットという人のそこでのたくらみの繊細さはそこまで安直ではないけど、これをあくまでイメージとして理解しようとするならわりと近い線いってる感じがする)。しかしあらためて、間接話法の説話主とはいったい誰なんだろうか。上記の匿名の話者(作者)による叙述の場面は直接話法的な三人称客観描写を装ってはいるけど、本質的にはシーリアという発言者の間接話法的言明の再構成であるように思う。その叙述が非人称の話者(作者)によって述べられているにもかかわらず、これを受けて再三再四リアクションの言葉を挿し挟むケリー氏の存在によって、それが作中人物の生きる水準では紛うことなくシーリアによって口にされている事実は(いまさら確認するまでもなく)明らかだろう。しかし再度、「にもかかわらず」、テキストのリテラルな読解においてシーリアは厳密にその間一語も発していないということ。つまり、(間接話法的な)叙述の主とは「あれか、あるいはこれか」式には決定できないもののように思われる。声や現在といった生や時間の固有性や一回性、希少性が奪われてあるのではなくて、小説のテキストという問題の場ではそれが無数に拡散され分有されることの課題が優先されるようにも思う。
 作品の構成に関して言えば、マーフィーという形而上学的な傾きをもった特異な人物の反教養小説的な彷徨(というか停滞)と脱出を描く骨格的な部面と、彼のその反冒険的、反活劇な生の運動とは本質的にはほとんど無縁に繰り広げられるその他の人物たちの、しかし隅から隅まで不在のマーフィーに対する欲望によって織り上げられたオートマチックな関係劇の部面と、二つのできごとが交互に展開されていく。前者に関しては今後ベケットの作品を読むのなら第六章を再チェックしろとだけありうべき自分に覚え書きを残しておく(しょうじき難しくてよくわかんなかった)。後者の、欲望の操り人形と化したかのような五人の主要人物たちの自動機械の連結部品のようなスラップスティックな連動と誤作動ぶりもめっぽうおもしろかった。変な小説だし謎だらけだったけどベケットはおもしろいと思う。