スタンダール『赤と黒』

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)

 恥ずかしながらスタンダール初読み。新訳が出たのでいい機会ってことで。去年フローベール読んだ時も思ったんだけど、いやーやっぱ古典なめちゃイカンなあ、と。読み物として普通におもしろすぎて困る。例によって気になった点だけ放言ぎみにメモ。

 主人公ジュリヤン・ソレルの間男ぶりはクロード・シモン『フランドルへの道』を思い起こさせる(志村ー、逆!文学史的にそれ逆!)。『フランドルへの道』がオイディプス的な正三角形の死角からこれをなし崩しにするようにして侵入する間男の横取りのさまを描き、滑らかなシーツの生地のように広がるかのような血統の正統性や家系の連続性(という仮象)を裏面から穴ぼこだらけにしてみせ、歴史の(いわば)雑種性をあらためて辿り直していたとするならば、1830年に生きるいま一人の間男ジュリヤン・ソレルのここでの仕事もまた(七月革命という)歴史的事件への連帯と呼応の姿勢を隠そうとはしておらず、(ただしこれに自覚的なブルジョワ固有の革命的決意とか階級意識とかとは当面別種の水準で)それを内在的に生き、呼吸し、不可避的なものとして引き受けるという受動性の次元において担おうとするものかもしれない。ソレルはサロンにたむろする王党派の貴族や聖職者たちから自由主義者の成金どもにいたるまでのお歴々の俗物ぶりを心底唾棄し憎悪するくらいの正義や自尊心を兼ね備えている人物ではあるけれど、ではその不屈の精神が具体的にどのような行動の指針をもたらしたのか、どのようにして世界に変革を起こそうとしたのか、その意志の形作るテキストに具象的なソレルの実現像にかんして作品が読み手に開示するところを読むかぎり、これは余りに機会主義的であるし、余りに体制に迎合しすぎているというそしりを免れようがないようにも思う(そのレベルで言えば、これは文学史的・フランス近代史的に非常に価値の高い、優雅で上品な島耕作とか無責任男シリーズといった立身出世ものの物語のはるかなご先祖様に過ぎないものとも読めるだろう)。ともあれそこで、貴族やブルジョワに対する青二才の横紙破り的な反感や主体的な革命的意志なんかとはぜんぜん別に、しかしなお、ジュリヤン・ソレルの叛意といったものがすくいだされるとするならば、それはレナール夫人やラ・モール侯爵嬢マチルドを相手どって行われた、あの間男的振る舞いの恋愛の天才にこそ見出だされるべきものなのだろう。ヴェリエールの片田舎で町長夫人相手に交わされた一度目の不義密通は右も左もわからない材木屋の小伜に身分のコードを踏み越える冒険を課し、恋愛と官能のもたらす歓びと苦悶に入門させる。破局に終わるこのレッスンとしての第一恋愛に継ぐブザンソンの神学校への放逐と幽囚じみたそこでの生活を経て、第二巻で展開される物語は第一巻での劇を首都パリというさらに大きな舞台、さらに大掛かりな規模で、国権の中枢にも程近い人物たちを相手どって再演されることになる(一件の幕が、神学校への蟄居ならぬ断頭台へと続く文字通りの監獄への収監として終わる結末は、劇中反復がこの物語のモチーフのひとつでもあることを明かしているようにも思う。ナポレオン的英雄像を反復することの同時代的な不可能を一身をもって証するジュリヤン・ソレルはまた、驚異的な記憶力によるラテン語の「復唱」を事あるごとに披露することで社交界に立身していくのでもあった)。ソレルの二度目の恋愛は一度目のそれのように夫と子どもを持つ女を相手に交わされるものではないけれど、父であるラ・モール侯爵の計らいどおりにことが運べばいずれ「公爵夫人」となるよう定められている貴顕の娘マチルドを誘惑し、その取り巻きの有力なライバルたちをことごとく出し抜きまんまと女を掠め取る才覚をもって、これをもまた、広い意味での間男の遣り口と見なしても構わないように思う(『フランドルへの道』においても、由緒ある家柄のコキュと従者や馬丁といった身分の低い男たちとの関係における階級的な落差こそがその姦通の主題を担っていたはずだ)。
 
 ちと迂回。そういえば、このあいだ読んだ『ミメーシス』のアウエルバッハは「様式混合」ということをしきりに口にしていた。アウエルバッハの言う「様式混合」とは平たく言っちゃえば、「平易な言葉(俗語)で崇高なできごと(悲劇)を描く」というテキストの文体におけるヴァナキュラリズムを指すけれど、旧約聖書と『オデュッセウス』からウルフ『灯台へ』までのヨーロッパ文学三千年を渉猟してほぼ間然するところのないその散文研究が最大限の畏敬に値するのは当然として、ただしかしそれにじゃっかんの疑念が残るとすれば、そこでは進展する時代に応じて著者により適宜選好されるテキストの言葉の書かれていた歴史的・社会的背景に関する社会学的な考察と現実描写(ミメーシス)における文体研究との関係が、外在的なまま照応され併置されるに留まってしまっているんじゃないのかって点だ。つまり、スタンダールなり誰なりがその時代時代で「様式混合」の水準をここまで引き上げたのは作家の生きたその社会のかくかくしかじかの状況がその著作と言葉にかような影響を強いたからなのだ、そこに彼の生きた社会や歴史性の反映を見ることができるのだ、という旨のアウエルバッハの仕事はそれじたいとしては文句のつけようのないとても見事なものだけれども、そこには歴史を通じて作品を見る(あるいは、作品を通じて歴史を見る)視点の見やすい遠近法的な布置が準備されてあっても、まさに不可分のものとしてそれそのものが歴史としてある言葉(テキストであり、同時にできごとでもあるような言葉)の次元がすっかり取りこぼされてしまっているような気がする。アウエルバッハは『ミメーシス』で一章を割いて『赤と黒』を論じてるけれど、彼の言う「様式混合」とは(その概念が声高には語っていないところ、いまだ訥々とした小さな呟きにすぎないところのものを最大限拾いあげ聴き取ろうとするならば)、作家スタンダールの生きた19世紀前半のフランス社会という外部から作品の内部の言葉を照射しているだけのものではないだろう。「様式混合」とはたぶんここで、ジュリヤン・ソレルというある種「法外」な(少なくとも七月革命以前の時空ではいかなる権力の行使の場面においても埒外にある定めの)間男が、マチルド・ラ・モール嬢という特権の近傍にある女との競技じみた恋愛の駆け引きの末に彼女の胎内に身篭らせた一粒の子種として結実しているものをもまた、それとして名指すことができるところのものであるだろう(唐突に何者かの父となってしまったことのトラウマ的な力は、これを容易に懐柔することなどできないのではないか。女と同じようには、男は妊娠=レッスンの時間を持つことはできないように思う。男が何者かの父となることは、それが女からの懐胎の告知の瞬間であれ子の出産の瞬間であれ、つねに社会=歴史という我有化できない不可抗の力にさらされ受け身の姿勢を強いられる経験であるようにも思う。ジュリヤン・ソレルの叛意の受動性の核心はこのあたりにあるように感じる)。外部の光源としてあるヴァナキュラーな現実をミメーシスの理念に則ってテキストに反映させるために「様式混合」が呼号される、それだけでは詰まらない。ヴァナキュラーな現実の歴史性は、テキストから見られる時代(社会)、時代から見られるテキスト、という遠近法的な分析の光学をぬけぬけとかいくぐって、エクリチュールの真っ只中に係累なし、身寄りなしの不義の子としてみずから懐胎し庶出してこなければならない。
 思えば、「材木屋の息子」であるジュリヤン・ソレルには、父親や兄弟の存在が後景的に描かれてはいても、その母親の気配は完全に絶たれてあったのだった。それが意図的な作家の言い落としなのか単なる配慮の欠如だったのかはわからない。ただそこから、ジュリヤン・ソレルもまた(彼の未来の「息子」がそうなるであるように)一人の非嫡出子であったという可能性を想像することは、これを読み手にはいっさい禁じるものだったろうか? そこから、ジュリヤン・ソレルはジュリヤン・ソレルを反復する(父無きまま生き直す)などという憶測を逞しくすることは、やはり許されてはいない所作だったろうか? そして、間男の父と息子とは、繰り返し何度でも、間男の身分以外の何者でもないことだけは確かなのではなかったろうか?

「どうだろう。ひょっとしたら死後も感覚は残るのかもしれないぞ」ジュリヤン・ソレル(『赤と黒』下巻・590頁)


赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)

赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)