川上未映子『わたくし率イン歯ー、または世界』/『乳と卵』

わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界

乳と卵

乳と卵

 ざっくりとメモ。
 身体という領土における「私」という不可能を巡る無数の局地戦の散文的記録のようなものとして了解した。『わたくし率イン歯ー、または世界』における「わたし/私」の奥歯であったり、『乳と卵』における豊胸手術を控える巻子の乳房、初潮を迎えようとする緑子の卵巣、あるいはまぶたによって強く閉じられてあらねばならない眼球であったりする、その中心に空虚や亀裂を抱えた容器として定位されるもろもろの身体局所は、そこに女たちの把握されがたい「私」を格納しているかのように代理表象されるかぎりで、これを言葉によっては明示不可能なものの隠喩の総覧として捉えることができるだろう(それが言葉によっては原理的に、永久に到達不可能であるかぎりで、ある隠喩は別の隠喩を際限なく呼び込むことになるはずだから、川上未映子的身体トポスの戦線はさながら燎原の炎のように延々と飛び火していかざるをえないだろう)。ここにはフェティシズムの機制とよく似た働きがあるようにも思う。「私」という単独的で一回的な固有のものが把握不可能なものとして以外には現れがたいとき、その無(「私」の不可能)を否定するために代理形成される物神的な表象物(呪物)が「否認(否定の否定)」の効果として現前する(『スタンツェ』のアガンベンが、「あるものの象徴であると同時に、その否定の象徴でもある」と定義していたもの)。「否認」の働きはここで、同定も同一化も不可能なものに対してヒステリー症的な情動や妄想を伴って(奥歯や乳房への偏執や瞑目への強迫、儀式的な緘黙の擬態……)、容器に蓋をかぶせるかのような反動的な防御の態勢を女たちに強いるだろう(そこにあるべきものは、そこにあらねばならない。そこにあってはならないものは、そこにあるべきではない。トートロジー)。川上未映子の開く戦線は、しかしむろん、そこで終端するものではない。隠喩の反動形成的な無限循環は、間接的に、いまだ反動がそこに割かれ、備給が当てられねばならないほどの対抗的な何らかの力が、同様以上のポテンシャルで沸き上がり続けていることを逆照し、証している。奥歯の蓋を無理矢理引き抜き血を溢れ出させ、懐胎と同時に巻子の胸から内容物を吸い取るように奪い潰し、卵細胞は経血もろとも流れつづけ、眼球に突き立った指先によって瞳はとめどもなく涙を零し、賞味期限の迫った2パック分の割られた卵は母子の頭といわず顔面といわずしたたかに覆いつくし、零れ落ちる。歯科の鋭利な器具や緑子の指先、ストッキングを突き破る足の指といった切っ先を持つ先端の諸形象が切開し、連接しようとするものはこの力の奔流であるだろう。それは「「否認」の否定(否定の否定の、否定!)」といった事態の顕現であるはずだ(繰り返される「否定」の語彙が、余りにもそこであらためて否定されるべきもの(「否認」)の姿勢に似てしまっているとするならば、これを「否認の決壊」とでも名付ければいいだろうか)。つまるところ「私」とはこの力の奔出に名付けられた便宜上の仮の名にすぎないであろうし、流れを身体領土にもたらす対立し拮抗する妄想や情動、愛、言葉や錯乱から成る諸契機のその力学的総体、その拡大しつづける戦線の総延長を指すものなのだろう。
 むろんこの作家の開く局地戦の数々は身体のトポスの上だけで片が付くわけでもなく、それは小説という書かれてある言葉の実践においても継続され示されてあらねばならず、たとえばこの点に関しては両作に読まれる作中人物たちの認める日記や手紙、ノートへの筆記という姿勢が示唆的でもあるだろう。小説の言葉に限らず、あらゆるエクリチュールは空っぽの書き手(「私」の不可能)が実現される場所なき場のような経験であるはずで、そこに現れているべきなのにそこには決して現れない書き手の(いわば亡霊的とも呼べる)境位は、たとえば『わたくし率イン歯ー、または世界』における「わたし/私」の、いまだ影も形もない我が子に向けて「お母さん」を偽装しつつ断続的に認められる、日付をたがえて順不同に並んだ日記/書簡の不審があって、おそらくここでは、読まれるべき順序をしかるべく整序し制御しうる書き手の慣習的な権能といったものが明確な破棄の対象として狙われている(ように読める)。「私」といったものの所在の絶え間無い揺動に脅迫されつづけている日記の書き手「わたし/私」は、その時だけは「お母さん」という確固たる身分で「私」を充全に生きることができることをみずから言祝いでいるのだから、上記(身体的)拮抗関係は明らかに言葉の上でも重ねて上演されているのだし、さらに念押しして確認しておけば、「私」秘的なはずのその日記/手紙の順不同の撹乱的な文言を読まされることによって「私」という書き手の安定をあらためて場所なき場の動揺へと再送付するよう共謀関係に引き込まれている私たち(しかし、「私」たち?)読み手のレクチュールにより、事態はむろん、表象=代行=再演といった物語内容におけるリプリゼンテーションの次元を越えて、この今、ここで、現に、直下に、テクストとともに生きられてもあるわけだろう。『乳と卵』において断章形式を装い随意に挿入され按配される、こちらはあらかじめ時間順序の厳密な区切りとはひとまず無縁といえる緑子の綴る署名入りのノート/備忘録の言葉たちもまた、緑子という「私」による記名化の欲望とともに、そこに書かれた言葉の律儀な時間順序や穏当な連続性を撹乱しシャッフルする、一篇の視点人物(「夏っちゃん」)によるノート/備忘録の瞥見の場面の前景化をともない、反動的で悪魔祓い的な呪物(フェティッシュ)による抑止力とそれに対抗する圧倒的な、いまだ当面名前も持たない非人称の力の流れとの、終わりのない対立を呼び込んでいる。あらかじめ書かれてある手紙の言葉を、宛先人の眼前で口に出してあらためて音読し発話しなおす、という『わたくし率イン歯ー、または世界』の「わたし/私」と三年子との接触において二度繰り返される印象的なしぐさも、エクリチュールの亡霊的な宿命に対する反動的な対抗措置としてこれを読むことが可能であり、あるいはまた、『乳と卵』における緑子のノートを使った筆談といったものも、エクリチュールの浮遊性に起因する「私」への投錨/「私」からの剥離という拮抗する引き裂かれた状態の実現を如実に窺わせもする。あるいは再び、身体におけるこの引き裂かれた状態の実現といったものを、奥歯や乳房その他もろもろの部分欲動的な局所にではなく、あらためて、接続と断絶とが形づくる流れの総体としての人物的形象のうちに見直すとするならば、緑子というあらゆる意味で中間的な身分を維持する少女こそがその具体的現実を生きていることを再発見することができるかもしれない。ある不可能なものに対する護法としてのフェティッシュ(および、その決壊)という視点から作品を読んできたここでは、巻子の身体(乳房や子宮)を中継点にしてこの世界へと(流されることなく)流れてきた緑子の存在とは、母親おのれにとっての不在のペニスの象徴ともなりうる身分を有しており、とはつまり、川上未映子的戦場の不断の火薬庫でありつづける資格をゆうに誇りうる、一個のまったき特権的形象でもあるだろう。
 さっくりと終わる。(いや、むろん「終わらない」)。