柄谷行人『日本精神分析』

日本精神分析 (講談社学術文庫)

日本精神分析 (講談社学術文庫)

 『ドゥルーズ・映画・フーコー』の丹生谷貴志はその中のいくつかの文章で(映画としての世界における)「絶対的な分身」と(演劇としての世界における)「相対的な分身」という概念を提示している。簡略して乱暴に言ってしまえば、そこにおける「分身」とは俳優にとってのある役柄にあたるもので、その役を演じる俳優(「分身」に対する本体)との分離可能性の有無が「分身」それじたいの相対性と絶対性との弁別を要請している(演劇の舞台の上でマクベスを演じる俳優が意識的にも現実的にもマクベスという役柄からつねに分離=乖離可能であることに対して、スクリーンに映るイーストウッドの演ずるハリー・キャラハンはハリー・キャラハンという「分身」から決して身を引き剥がすことができない。スクリーン上の「分身」キャラハンは「本体」イーストウッドには決して還元されることはない)。演劇としての世界における俳優(的身分)には、自身と「分身」との関係において真の自己(本体)へと向けてみずからの解放や自由意志を夢見ることが可能であるけれど、映画としての世界における存在にはそもそもそのような(「分身」からの脱出というような)疎外論的な発想をすることじたいの可能性があらかじめ、無い。丹生谷貴志の思考は、「相対的な分身」においてはじめて発想可能なこの自由と運命論というような対立関係の裏面で、「今ここに現にある」その「絶対的な分身」を巡って繰り延べられていく(ここで言われている「俳優」とは念押しするまでもなく、演劇とか映画にまつわる論考の直接的な主題が仮に要請している語彙であって、無論わたしたちの生の様態そのものを対象にしている)。
 柄谷行人のこの本の諸論考は丹生谷的文脈に沿わせてみれば、演劇的世界と「相対的な分身」を巡って(標的にして)展開されているように思う(……と言って、別に柄谷のその著書での考察の価値が減ずるわけじゃない。この手の運動にもコミュニズムにもまったく無縁な自分があれこれ言える資格はないし、柄谷行人という人に対してひとかけらも、何らの恩讐も感じていないし、利害関係にあるわけでもない、そのような立場から読んで、率直に、彼の言説のずば抜けた鋭敏さには今更ながらあらためて、何度でも驚嘆するだけだ)。「相対的な分身」といって語弊があるなら、それをもじって、演劇としての世界における「相対的な本体(主体)」の問題と言ってもいいかもしれない。当然のことながら、柄谷行人には「分身」を廃絶して「絶対的な本体」(自由)の場所へといたることが可能であるとするような長閑な発想は皆無だけれど、そこにおける代表制の場における「無記名投票とくじ引き」のシステムの導入なり「市民通貨」なりの議論には、主体に不可避なもろもろのパトローギッシュな感性的偏向(理性=自由の対立物)を充分に見積もった上で、しかしなお、自分たちの行動によって世界を変革しうるという理念にもとづく社会的実践の可能性が強固に信じられている。柄谷氏は、《アソシエーショニズムによる資本制=ネーション=ステートの揚棄は、近いうちに実現されるどころか、何世紀もかかる運動》(226頁)だという厳しい事実を怖れずに自覚し明言しているけれど、おそらくそのような認識は事実認識として厳正すぎるほどに厳正であるだけに、柄谷氏の姿をある種の厳格な預言者のそれと見分けがたいまでに酷似させるだろう(丹生谷貴志はどこかで「最近の柄谷行人ユダヤニヒリズムに近づいているのではないか?」みたいなコメントを口にしてたけど、その真意はおそらく、以上の意味においてなのではないか? その成果が「何世紀」か後にようやく結実するような運動とは、現存する参加者全員にとって、彼らの死後に到来するメシヤ的な希望以外の何ものとして観念されていただろうか?)。あるいは直後に、柄谷氏はこう書く。《(アソシエーショニズムの運動は)漸進的に実現するほかない。にもかかわらず、これは、部分的には、今すぐにここで、実現できるものでもあるのです。》。丹生谷的な「絶対的な分身」と柄谷的な「相対的な本体」とはここでも交差する。「今ここに現にある」あるいは「今ここで現になりつつある」丹生谷的な「絶対的な分身」の様態として「老い」のような内在的な進行過程(そこでは能動と受動、主体と客体、暴力と受苦とかいった相補的な分割を形づくることができない)は、端的に、否定も肯定も関係の無い場所でそのように生きられるしかやりようがない。他方で柄谷氏の言う「今すぐにここで、実現できるもの」とは、実存的な賭けのもつ切実さのようにして、それが「実現」されない局面につねに可能的に脅かされているだろう。そこに人間的な倫理があり、しかしたぶん、同時に、ニヒリズムが充分に培養される余地も生じている。
 勝手な比較をした上で言えば、資質的に自分は圧倒的に丹生谷貴志の文章に説得されるんだけど、しかし柄谷行人がここで何か間違ったことを言っているようには到底思えない。ただおそらく、実践を領導することを謳う理論そのものに(間違った/正しいとかの別なく)一般的な不可避の行程というものがあって、そこに躓く。