フィリップ・K・ディック『最後から二番目の真実』
- 作者: フィリップ・K.ディック,Pilip K. Dick,佐藤龍雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2007/05
- メディア: 文庫
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事態はこのような小道具的な水準にとどまらない。物語の最重要人物の一人であるデイヴィッド・ランターノは、政府の「声明執筆官」という役職にあってタルボット・ヤンシー護民官(=シミュラクラ)のプロパガンダ映像の作成に深く関わりながらも黒幕スタントン・ブロウズによって支配される世界構造を転覆するためにクーデタを目論むカリスマ的な謎と魅力と畏ろしさとに恵まれた人格として描かれるけれども、その実態は、くだんの「時間遡行機」の力にあずかって600年以上も生き続けるネイティブアメリカンの族長であり、タルボット・ヤンシーの空虚なシミュラクラだと思われたものこそはランターノその人の似姿として作成された事実が明らかとなる。そこで起こっていることとは、単に世俗的な権力劇であるという以上に、「本物」と「偽もの」とのあいだのある地位を巡る争闘であるだろう。支配者側から見れば、地下生活者たちにとってのタルボット・ヤンシー護民官のシミュラクラ映像とは「本物」以上でも以下でもあってはならない。「本物」と「偽もの」という弁証法的な認識劇の外側でその存在は過不足なくメディアの影像に収まっていなければ人民を欺き続けることはできない。政府の黒幕スタントン・ブロウズはそのうえで「偽もの」のシミュラクラを裏で操る「本物」の支配者として地下世界からはけっして窺い知ることのできない不可知の頭上に君臨し続けることが可能となる。このブロウズの簒奪行為に対してデイヴィッド・ランターノは、存在的な次元においてヴァーチュアルな偶像に過ぎなかったはずのタルボット・ヤンシー護民官の空虚な地位を真実の資格をもって埋めるためにその世界へと到来(回帰)することになる。ランターノが帯びるその真実の資格とは、架空の、捏造されたその「偽もの」の居場所を、もはやいかなる「本物」の担保も必要としない真の、留保なき「偽もの」として生きる決意によってはじめて彼にもたらされるものだと言えるかもしれない。(作中の事実としてタルボット・ヤンシーのモデルとなった「本物」の人物が40年以上前のデイヴィッド・ランターノ本人であった事情が語られることになるので、「存在的な次元」において彼には僭主を追い落とす充分な正当性があることも明言されてはいるけれども、しかしそもそもが600年前のネイティブアメリカンの一人であったとも語られるこの、ちょっとオデュッセウス的な相貌が伺われぬでもない人物タルボット・ヤンシーが、では、真に、一体何者なのか?という出自の核心について、物語は何ら説得的な解答を与えてはくれない。デイヴィッド・ランターノはタルボット・ヤンシーである、のではなく、ランターノはタルボット・ヤンシーになる、ということの真の「偽もの」性はそこにあるだろう)。このあたりに、「本物そっくりの偽もの」というような物語の主題がしばしば印象させがちな凡庸な疎外論的図式からは微妙にずれていく線がディックのこの小説には走っているようにも思う。たとえばそれは、ドゥルーズが『意味の論理学』の最初の方のセリーで触れているシミュラクルの表面への浮上みたいな事態をディックは直感的に掴んでいたのではないか?……などという夢想にそれなりのリアリティーを与えもするだろう(それをエンタテイメント作家に固有の資質と啓蒙精神とにおいてドラマとして展開していたじゃないか、みたいに)。
もっとも、このような贔屓の引き倒しみたいな読み方は、それが登場人物の一人の視点のみを中心的に引き寄せることによってはじめてそう読まれることが可能になるのであって、この小説の主人公といって差し支えない別の人物の行動や決断を虚心に読むと、またちょっと異なる結論が出てくることも確かだろう。友人の命を救うのに必要な「人工膵臓」を手に入れるために地下世界から抜け出し地上へと潜入したニコラス・セントジェームズは、無事目的を果たしたのちに物語の最終場面で再び地下へと戻っていき、戦争開始を口実に自分たちが15年間強いられてきた虜囚じみた惨めな生活と強制労働の一切すべてが「偽もの」であったという真実を胸に秘めつつ、作品末尾のことばを締める。
「とにかく」アダムズは冷然といった。「なんらかの手を考えるさ、おれたち自身の知恵でな」
ニコラスはいった。「それがいい、あんたらにもその知恵はあるはずだからな」ただし、ひとつだけ忘れるなよ――と心のなかでつぶやきながら、妻の体をきつく抱き寄せる。
おまえたちはもう嘘をつけないということを。
なぜなら、おれたちがそれを許さないから。[361頁]
このニコラスの強い否定の決意がその後具体的にどのように世界にぶつかっていくことになるのかは、もちろん読者には知ることのできない領域に属している。しかし、それが「本物」と「偽もの」との区分を外側から鑑定するような認識論的な識別における課題となるであろうことは充分に窺い知ることはできるだろう(それを端的に疎外論と言ってもしまってもいいだろうし、あるいは丹生谷貴志の語彙を継いで「演劇的な世界」における「分身」的身分の自由にまつわる課題とかと言ってもいいように思う。はたまたドゥルーズなら、それを物質の深みにおける体毛・垢・泥のイデア的闘争と呼ぶかもしれない)。ともあれ、それはおそらく、自己規定の身振りにおけるタルボット・ヤンシー的な「偽もの」になることという生成の課題と、ニコラス的な「偽もの」である(ことを否認して「本物」であることを自任する)ことの存在の公理との微細な差異として、ディックのこの小説の読み手にちょっと居心地の悪い、容易には収まりのつかない不安を与え続けるようにも思う。このパラノイアックな危うさがディックの小説のおもしろさのひとつだとも思う。