こうの史代『この世界の片隅に』

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 こうの史代の新作に収められた各エピソードはおもに第二次大戦の期間内という限定されたスパンの中で月日が推移していっている(「18年12月」から始まる雑誌連載された本編に、その前史をなす主人公浦野すずのこども時代の様子を描いた三回の読み切り作品が冒頭に据えられている)。話の舞台が広島であること、それが戦時中の銃後の生活の情景を描いていること、『夕凪の街』の作者が新たに語り始めた物語であること、そんなこんなをもとにした予断が働いて、作品を読みながらいつの間にか自分が、「20年8月」で描かれるであろうエピソードを物語のクライマックスじみたものとして念頭においていることに気付き、驚いてしまった。作品の内部では(今のところは)いっさい描かれていない場面を、作品外の(歴史的な)知識を梃子にして自分に理解しやすいフレームとして勝手に仕立てあげて物語を読んでいくこの姿勢は、単純に余りにも反動的だし自堕落な倒錯だったと反省した。しかし、言い訳するわけじゃないけど、読み手にそのような物語の内部における時間的な把握の転倒を許す仕組みが作品そのものによってお膳立てされていたのではないのか、とも思った(もっと積極的に言えば、そこにこそ作者の狙いの一端があるのではないか?という疑問が芽生えた)。
 各回のエピソードに対してごく簡素に題される進行する日付(この上巻では「18年12月」から「19年7月」まで)は、しかし実は、それが通常よくある日記だとか備忘録のそれと同じようには機能していないと思う。物語の中で描かれたこととそうではないこと、のリテラルな区別がとても困難になってしまう問題の領域というものが、たとえば「20年8月」というような歴史的に巨大な事実にはそなわっているようにも思う。それはその事件の存在を一度知ってしまったらその事実を忘れることなど、たとえ身振りの上ですら容易には人に許さないような、途轍もなく強迫的な力をあたりかまわず放射している。「20年8月」の一語が明示的に語られるまでもなく、その近傍に近寄っただけで容赦なくありとあらゆる言説や物語が事件の歴史的な磁場に吸着させられ回収されていく。「19年2月」に呉の片田舎で挙げられたごく慎ましいささやかな(しかし参列の人々の温かな心ばえに満ちた)結婚式は、「20年8月」の磁場の中で、それがあの出来事のちょうど一年半前だった、という具合に逆算的に記念され思い出されていくことになる。この作品の日付の登記が通常の日記のたぐいのそれと決定的に異なるのがここなのではないだろうか。そこでは現在進行中の出来事すらが過去の営みのひとこまとして、刻々と思い出されていく。物語の中で起こるすべての出来事は生起したそばから、「20年8月」という特定の未来の視座からその位置を標定されて、過去の思い出としてピン止めされていく(得体の知れない神が弄ぶ、無慈悲な昆虫採集の標本帳をでも見るような薄ら寒い感触がないでもない)。ここには人間がその生に費やす時間とはまったく別種の奇怪な時間が、いわば逆向きに流れ出しているようにも思う。それをたとえば死者の時間経験とかと言ってみたい気もする(あるいは、死者の言説とか)。死というものの厳密な定義なんて自分にはまったく理解の埒外だけれども、ここではそれを大雑把に、言説(とその機会)を奪われた者くらいに把握しておく。死者は語らない、というよりも、語れない者こそが死者だ、みたいな。その意味では、わたしたち生者もまた部分的には瞬間ごとに(言葉の到来するほんの一瞬の間隙に)確かに無数の死を死んでいるとみなしても構わない(この瞬時の死に継ぐほんの偶然の再話の機会が、わたしたちをとりあえず、しばしのあいだ本式の死から引き離してくれる。生とはつまるところこの、せわしない鬼ごっこみたいなものなんじゃないだろうか)。生と死の間の薄膜はとても曖昧で、死者をもまた、言説の機会を当面永久に奪われた生者だと規定することもできるかもしれない。こうの史代の『この世界の片隅に』という作品のありふれていると言えばありふれてるし、奇妙と言えば実に奇妙な、さらにはそれが明晰に意図されたものなのかどうかも未だ定かではない、説話形式の構えは、死者のその、再び語るための時間を前へと進めることが永久に不可能となったはずの閉じられた口をして、再度、何度でも、新たに語らしめようとする機会を与えることに寄与しているかもしれない。
 説話の時間を錯誤させるこうの史代のこのような実践は、そういえば『夕凪の街桜の国』にも見ることができることを思い出した。「桜の国」の主人公七波が物語の最後に幻視する、自分の誕生以前の父母の出会いの場に逆行的に立ち会い、そこで彼らを父母として選択し、彼らの娘としてみずからの生誕を決断したことが遡及的に再認される場面が、それだった。そこには時間の流れの中で展開する出自や境遇というものを巡る偶然性と不可避性の問題に対するきわめてアクロバティックな馴致が見られたけれども、『この世界の片隅に』という作品を半分だけ読んだいま、またちょっと違った観点から新たにそれを見直すことができるのかもしれない(つっこむと長くなりそうなんで控えておくけど、触りだけメモしておけば、七波がその幻視の場で明瞭に思い出すこととは、「見ていた」ことと「決めた」ことの二つだけであること。「見て」いたことも「決めた」ことも、本質的には言葉の場の外でのみ行われる誕生の営みであり、同時にその誕生は上述の意味での死と見分けがたいまでに酷似していること。そしてつまり、それが「思い出し」に成功した生者の言葉の力によってもはや愛とも死とも見分けがたい、ある無言の様態を確かに救い出してみせていること、等々)。
 (こう簡約して言っちゃってよければ)「生者が死者を思い出す」という『夕凪の街桜の国』の作品モチーフは、「思い出す」という語が通例まとわせがちな思い出す人と思い出される対象との隔たりの意識を廃棄した場所で追求されていたと思う。そもそも生者(七波)は面識もない50年前の死者(皆実)を対象として思い出すことなどできない(いろいろと解釈されそうな皆実の死を描いた/描けなかった一連のモノローグのシーンは、隔たりを介して死者と出会うことの最終的な座礁をその空白の画面に刻んでいたと思う)。生者(七波)が思い出すことに真に成功するのは、ほかならぬ自分の身体の根底で今現在も進行形で作動し続けている死者たち(皆実や母)の血を、みずからの生存の条件に不可欠な固有性としてはっきりと認知することによってだろう。

 ごちゃごちゃ妄言を垂れ流した。『この世界の片隅に』という作品がこの先どう展開していくのかはもちろんわからない。ただなんとなく、それは、「死者が生者を思い出す」という不可能を可能にする死者の言説の存立の条件を問うような方向に進んでいくんじゃないか?ともうっすら予感する。