川上未映子『わたくし率イン歯ー、または世界』/『乳と卵』

わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界

乳と卵

乳と卵

 ざっくりとメモ。
 身体という領土における「私」という不可能を巡る無数の局地戦の散文的記録のようなものとして了解した。『わたくし率イン歯ー、または世界』における「わたし/私」の奥歯であったり、『乳と卵』における豊胸手術を控える巻子の乳房、初潮を迎えようとする緑子の卵巣、あるいはまぶたによって強く閉じられてあらねばならない眼球であったりする、その中心に空虚や亀裂を抱えた容器として定位されるもろもろの身体局所は、そこに女たちの把握されがたい「私」を格納しているかのように代理表象されるかぎりで、これを言葉によっては明示不可能なものの隠喩の総覧として捉えることができるだろう(それが言葉によっては原理的に、永久に到達不可能であるかぎりで、ある隠喩は別の隠喩を際限なく呼び込むことになるはずだから、川上未映子的身体トポスの戦線はさながら燎原の炎のように延々と飛び火していかざるをえないだろう)。ここにはフェティシズムの機制とよく似た働きがあるようにも思う。「私」という単独的で一回的な固有のものが把握不可能なものとして以外には現れがたいとき、その無(「私」の不可能)を否定するために代理形成される物神的な表象物(呪物)が「否認(否定の否定)」の効果として現前する(『スタンツェ』のアガンベンが、「あるものの象徴であると同時に、その否定の象徴でもある」と定義していたもの)。「否認」の働きはここで、同定も同一化も不可能なものに対してヒステリー症的な情動や妄想を伴って(奥歯や乳房への偏執や瞑目への強迫、儀式的な緘黙の擬態……)、容器に蓋をかぶせるかのような反動的な防御の態勢を女たちに強いるだろう(そこにあるべきものは、そこにあらねばならない。そこにあってはならないものは、そこにあるべきではない。トートロジー)。川上未映子の開く戦線は、しかしむろん、そこで終端するものではない。隠喩の反動形成的な無限循環は、間接的に、いまだ反動がそこに割かれ、備給が当てられねばならないほどの対抗的な何らかの力が、同様以上のポテンシャルで沸き上がり続けていることを逆照し、証している。奥歯の蓋を無理矢理引き抜き血を溢れ出させ、懐胎と同時に巻子の胸から内容物を吸い取るように奪い潰し、卵細胞は経血もろとも流れつづけ、眼球に突き立った指先によって瞳はとめどもなく涙を零し、賞味期限の迫った2パック分の割られた卵は母子の頭といわず顔面といわずしたたかに覆いつくし、零れ落ちる。歯科の鋭利な器具や緑子の指先、ストッキングを突き破る足の指といった切っ先を持つ先端の諸形象が切開し、連接しようとするものはこの力の奔流であるだろう。それは「「否認」の否定(否定の否定の、否定!)」といった事態の顕現であるはずだ(繰り返される「否定」の語彙が、余りにもそこであらためて否定されるべきもの(「否認」)の姿勢に似てしまっているとするならば、これを「否認の決壊」とでも名付ければいいだろうか)。つまるところ「私」とはこの力の奔出に名付けられた便宜上の仮の名にすぎないであろうし、流れを身体領土にもたらす対立し拮抗する妄想や情動、愛、言葉や錯乱から成る諸契機のその力学的総体、その拡大しつづける戦線の総延長を指すものなのだろう。
 むろんこの作家の開く局地戦の数々は身体のトポスの上だけで片が付くわけでもなく、それは小説という書かれてある言葉の実践においても継続され示されてあらねばならず、たとえばこの点に関しては両作に読まれる作中人物たちの認める日記や手紙、ノートへの筆記という姿勢が示唆的でもあるだろう。小説の言葉に限らず、あらゆるエクリチュールは空っぽの書き手(「私」の不可能)が実現される場所なき場のような経験であるはずで、そこに現れているべきなのにそこには決して現れない書き手の(いわば亡霊的とも呼べる)境位は、たとえば『わたくし率イン歯ー、または世界』における「わたし/私」の、いまだ影も形もない我が子に向けて「お母さん」を偽装しつつ断続的に認められる、日付をたがえて順不同に並んだ日記/書簡の不審があって、おそらくここでは、読まれるべき順序をしかるべく整序し制御しうる書き手の慣習的な権能といったものが明確な破棄の対象として狙われている(ように読める)。「私」といったものの所在の絶え間無い揺動に脅迫されつづけている日記の書き手「わたし/私」は、その時だけは「お母さん」という確固たる身分で「私」を充全に生きることができることをみずから言祝いでいるのだから、上記(身体的)拮抗関係は明らかに言葉の上でも重ねて上演されているのだし、さらに念押しして確認しておけば、「私」秘的なはずのその日記/手紙の順不同の撹乱的な文言を読まされることによって「私」という書き手の安定をあらためて場所なき場の動揺へと再送付するよう共謀関係に引き込まれている私たち(しかし、「私」たち?)読み手のレクチュールにより、事態はむろん、表象=代行=再演といった物語内容におけるリプリゼンテーションの次元を越えて、この今、ここで、現に、直下に、テクストとともに生きられてもあるわけだろう。『乳と卵』において断章形式を装い随意に挿入され按配される、こちらはあらかじめ時間順序の厳密な区切りとはひとまず無縁といえる緑子の綴る署名入りのノート/備忘録の言葉たちもまた、緑子という「私」による記名化の欲望とともに、そこに書かれた言葉の律儀な時間順序や穏当な連続性を撹乱しシャッフルする、一篇の視点人物(「夏っちゃん」)によるノート/備忘録の瞥見の場面の前景化をともない、反動的で悪魔祓い的な呪物(フェティッシュ)による抑止力とそれに対抗する圧倒的な、いまだ当面名前も持たない非人称の力の流れとの、終わりのない対立を呼び込んでいる。あらかじめ書かれてある手紙の言葉を、宛先人の眼前で口に出してあらためて音読し発話しなおす、という『わたくし率イン歯ー、または世界』の「わたし/私」と三年子との接触において二度繰り返される印象的なしぐさも、エクリチュールの亡霊的な宿命に対する反動的な対抗措置としてこれを読むことが可能であり、あるいはまた、『乳と卵』における緑子のノートを使った筆談といったものも、エクリチュールの浮遊性に起因する「私」への投錨/「私」からの剥離という拮抗する引き裂かれた状態の実現を如実に窺わせもする。あるいは再び、身体におけるこの引き裂かれた状態の実現といったものを、奥歯や乳房その他もろもろの部分欲動的な局所にではなく、あらためて、接続と断絶とが形づくる流れの総体としての人物的形象のうちに見直すとするならば、緑子というあらゆる意味で中間的な身分を維持する少女こそがその具体的現実を生きていることを再発見することができるかもしれない。ある不可能なものに対する護法としてのフェティッシュ(および、その決壊)という視点から作品を読んできたここでは、巻子の身体(乳房や子宮)を中継点にしてこの世界へと(流されることなく)流れてきた緑子の存在とは、母親おのれにとっての不在のペニスの象徴ともなりうる身分を有しており、とはつまり、川上未映子的戦場の不断の火薬庫でありつづける資格をゆうに誇りうる、一個のまったき特権的形象でもあるだろう。
 さっくりと終わる。(いや、むろん「終わらない」)。

スタンダール『赤と黒』

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)

 恥ずかしながらスタンダール初読み。新訳が出たのでいい機会ってことで。去年フローベール読んだ時も思ったんだけど、いやーやっぱ古典なめちゃイカンなあ、と。読み物として普通におもしろすぎて困る。例によって気になった点だけ放言ぎみにメモ。

 主人公ジュリヤン・ソレルの間男ぶりはクロード・シモン『フランドルへの道』を思い起こさせる(志村ー、逆!文学史的にそれ逆!)。『フランドルへの道』がオイディプス的な正三角形の死角からこれをなし崩しにするようにして侵入する間男の横取りのさまを描き、滑らかなシーツの生地のように広がるかのような血統の正統性や家系の連続性(という仮象)を裏面から穴ぼこだらけにしてみせ、歴史の(いわば)雑種性をあらためて辿り直していたとするならば、1830年に生きるいま一人の間男ジュリヤン・ソレルのここでの仕事もまた(七月革命という)歴史的事件への連帯と呼応の姿勢を隠そうとはしておらず、(ただしこれに自覚的なブルジョワ固有の革命的決意とか階級意識とかとは当面別種の水準で)それを内在的に生き、呼吸し、不可避的なものとして引き受けるという受動性の次元において担おうとするものかもしれない。ソレルはサロンにたむろする王党派の貴族や聖職者たちから自由主義者の成金どもにいたるまでのお歴々の俗物ぶりを心底唾棄し憎悪するくらいの正義や自尊心を兼ね備えている人物ではあるけれど、ではその不屈の精神が具体的にどのような行動の指針をもたらしたのか、どのようにして世界に変革を起こそうとしたのか、その意志の形作るテキストに具象的なソレルの実現像にかんして作品が読み手に開示するところを読むかぎり、これは余りに機会主義的であるし、余りに体制に迎合しすぎているというそしりを免れようがないようにも思う(そのレベルで言えば、これは文学史的・フランス近代史的に非常に価値の高い、優雅で上品な島耕作とか無責任男シリーズといった立身出世ものの物語のはるかなご先祖様に過ぎないものとも読めるだろう)。ともあれそこで、貴族やブルジョワに対する青二才の横紙破り的な反感や主体的な革命的意志なんかとはぜんぜん別に、しかしなお、ジュリヤン・ソレルの叛意といったものがすくいだされるとするならば、それはレナール夫人やラ・モール侯爵嬢マチルドを相手どって行われた、あの間男的振る舞いの恋愛の天才にこそ見出だされるべきものなのだろう。ヴェリエールの片田舎で町長夫人相手に交わされた一度目の不義密通は右も左もわからない材木屋の小伜に身分のコードを踏み越える冒険を課し、恋愛と官能のもたらす歓びと苦悶に入門させる。破局に終わるこのレッスンとしての第一恋愛に継ぐブザンソンの神学校への放逐と幽囚じみたそこでの生活を経て、第二巻で展開される物語は第一巻での劇を首都パリというさらに大きな舞台、さらに大掛かりな規模で、国権の中枢にも程近い人物たちを相手どって再演されることになる(一件の幕が、神学校への蟄居ならぬ断頭台へと続く文字通りの監獄への収監として終わる結末は、劇中反復がこの物語のモチーフのひとつでもあることを明かしているようにも思う。ナポレオン的英雄像を反復することの同時代的な不可能を一身をもって証するジュリヤン・ソレルはまた、驚異的な記憶力によるラテン語の「復唱」を事あるごとに披露することで社交界に立身していくのでもあった)。ソレルの二度目の恋愛は一度目のそれのように夫と子どもを持つ女を相手に交わされるものではないけれど、父であるラ・モール侯爵の計らいどおりにことが運べばいずれ「公爵夫人」となるよう定められている貴顕の娘マチルドを誘惑し、その取り巻きの有力なライバルたちをことごとく出し抜きまんまと女を掠め取る才覚をもって、これをもまた、広い意味での間男の遣り口と見なしても構わないように思う(『フランドルへの道』においても、由緒ある家柄のコキュと従者や馬丁といった身分の低い男たちとの関係における階級的な落差こそがその姦通の主題を担っていたはずだ)。
 
 ちと迂回。そういえば、このあいだ読んだ『ミメーシス』のアウエルバッハは「様式混合」ということをしきりに口にしていた。アウエルバッハの言う「様式混合」とは平たく言っちゃえば、「平易な言葉(俗語)で崇高なできごと(悲劇)を描く」というテキストの文体におけるヴァナキュラリズムを指すけれど、旧約聖書と『オデュッセウス』からウルフ『灯台へ』までのヨーロッパ文学三千年を渉猟してほぼ間然するところのないその散文研究が最大限の畏敬に値するのは当然として、ただしかしそれにじゃっかんの疑念が残るとすれば、そこでは進展する時代に応じて著者により適宜選好されるテキストの言葉の書かれていた歴史的・社会的背景に関する社会学的な考察と現実描写(ミメーシス)における文体研究との関係が、外在的なまま照応され併置されるに留まってしまっているんじゃないのかって点だ。つまり、スタンダールなり誰なりがその時代時代で「様式混合」の水準をここまで引き上げたのは作家の生きたその社会のかくかくしかじかの状況がその著作と言葉にかような影響を強いたからなのだ、そこに彼の生きた社会や歴史性の反映を見ることができるのだ、という旨のアウエルバッハの仕事はそれじたいとしては文句のつけようのないとても見事なものだけれども、そこには歴史を通じて作品を見る(あるいは、作品を通じて歴史を見る)視点の見やすい遠近法的な布置が準備されてあっても、まさに不可分のものとしてそれそのものが歴史としてある言葉(テキストであり、同時にできごとでもあるような言葉)の次元がすっかり取りこぼされてしまっているような気がする。アウエルバッハは『ミメーシス』で一章を割いて『赤と黒』を論じてるけれど、彼の言う「様式混合」とは(その概念が声高には語っていないところ、いまだ訥々とした小さな呟きにすぎないところのものを最大限拾いあげ聴き取ろうとするならば)、作家スタンダールの生きた19世紀前半のフランス社会という外部から作品の内部の言葉を照射しているだけのものではないだろう。「様式混合」とはたぶんここで、ジュリヤン・ソレルというある種「法外」な(少なくとも七月革命以前の時空ではいかなる権力の行使の場面においても埒外にある定めの)間男が、マチルド・ラ・モール嬢という特権の近傍にある女との競技じみた恋愛の駆け引きの末に彼女の胎内に身篭らせた一粒の子種として結実しているものをもまた、それとして名指すことができるところのものであるだろう(唐突に何者かの父となってしまったことのトラウマ的な力は、これを容易に懐柔することなどできないのではないか。女と同じようには、男は妊娠=レッスンの時間を持つことはできないように思う。男が何者かの父となることは、それが女からの懐胎の告知の瞬間であれ子の出産の瞬間であれ、つねに社会=歴史という我有化できない不可抗の力にさらされ受け身の姿勢を強いられる経験であるようにも思う。ジュリヤン・ソレルの叛意の受動性の核心はこのあたりにあるように感じる)。外部の光源としてあるヴァナキュラーな現実をミメーシスの理念に則ってテキストに反映させるために「様式混合」が呼号される、それだけでは詰まらない。ヴァナキュラーな現実の歴史性は、テキストから見られる時代(社会)、時代から見られるテキスト、という遠近法的な分析の光学をぬけぬけとかいくぐって、エクリチュールの真っ只中に係累なし、身寄りなしの不義の子としてみずから懐胎し庶出してこなければならない。
 思えば、「材木屋の息子」であるジュリヤン・ソレルには、父親や兄弟の存在が後景的に描かれてはいても、その母親の気配は完全に絶たれてあったのだった。それが意図的な作家の言い落としなのか単なる配慮の欠如だったのかはわからない。ただそこから、ジュリヤン・ソレルもまた(彼の未来の「息子」がそうなるであるように)一人の非嫡出子であったという可能性を想像することは、これを読み手にはいっさい禁じるものだったろうか? そこから、ジュリヤン・ソレルはジュリヤン・ソレルを反復する(父無きまま生き直す)などという憶測を逞しくすることは、やはり許されてはいない所作だったろうか? そして、間男の父と息子とは、繰り返し何度でも、間男の身分以外の何者でもないことだけは確かなのではなかったろうか?

「どうだろう。ひょっとしたら死後も感覚は残るのかもしれないぞ」ジュリヤン・ソレル(『赤と黒』下巻・590頁)


赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)

赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)

ベケット『マーフィー』

マーフィー

マーフィー

 久しぶりに小説を読んだけど、めちゃくちゃ変な作品で面食らってしまった(ベケットはじめて)。以下本編とは関係のないざれごと。
 読み始めてまず、(体感的には)もうほとんど一行ごとに連発される警句というか箴言というかペダントリックな地口の洪水にくらくらしてしまう。巻末の訳注は充実していて作者がそのレトリックで何を言おうとしているのかを理解するのに便利だったけど、そのつどあまりにも律儀にせわしなく本文と注釈のあいだをいったりきたりしていたら息が切れそうになったんで途中から、あーやめやめ、この読み方超やめーってことにしたらちょっと楽になった。手口の知れないはじめて読む作家の作品の特に出だしなんかは、接するこちらの姿勢もまだふらふらしてるんだからまずは作者の言葉(この場合訳者の訳文)の呼吸にこちらの呼吸を合わせるようにして、当面わからないくだりが出てきてもわからないままでバンバン流していくほうが、立ち止まりながら文章をいちいち逐語的に理解しようとするよりも結果的によろしいように思った(と、教訓をひとつゲットしたと思ったんだけど、そのことと、この作品を理解できたかどうかはぜんぜん別個のはなしだったみたいだ。教訓、あまりあてにならん)。
 作者の厚みのある豊かなペダントリとちょっと奇天烈な地口の軽妙さにしょっぱな(アレルギー反応気味に)圧倒されてしまったわけだけれど、冒頭直後にはまた別種の風変わりな言語実践(遊戯)に出くわすことができる。主人公マーフィーの恋人で元娼婦のシーリアが、行き違いになりつつある二人の仲の現状報告というかたちで祖父のケリー氏の部屋に赴いた場面。ベケットの筆はそこで、シーリアによる恋人同士の二人の空間に起こったできごとの述懐から「述懐」という行為のもつ主観性を抜き去り(当事者として報告するはずのシーリアの特権的な肉声を抜き去り)、それに代えて、どこからともなくぬけぬけと叙述の場に闖入してきた匿名の話者が三人称の視点から当の二人に起こったできごとの情況を描写するという処理をほどこしている。この身元不明の不埒な話者の存在とは、物語に書かれているできごとの言葉をメタな視点からあらかじめみずからの言葉として指呼するという図々しさをまったく隠そうとしないいくつかの徴候を根拠に、ごく簡潔に作者と名指しできるものだろう。場面において進行中であるシーリアとケリー氏の会話のやり取りは基本的には愚直な直接話法によって交わされているんだけれど、二人の話柄がシーリアとマーフィーの身の上に起こった近過去の具体的な情景に及ぶつど、シーリアの生の声は消去されてしまい、(ケリー氏の部屋における)場面の現在性じたいも話者が間接話法的な立場から代理的に語るこのいまひとつの場面に移設されてしまう(声と現在が奪われる。ていうか、それらの一回性や単一性といったものが「正当にも」ないがしろにされるって感じ)。かてて加えて場面にぐだぐたかつ喜劇的な活気を与えるのは、この非人称を装った話者による代理的叙述の現在に対して、それをあらためてシーリアの語りの現前性を再担保する恰好で、あたかもそれまでシーリアの言葉と現在が作者によるなんらの容喙も介入もなかったかのようにシーリア目掛けて合いの手やツッコミをちょいちょい挟むケリー氏の発話の存在によるものだろう。シーリアから作者に奪われた語りの言葉と現在が読者であるケリー氏のツッコミによって再度作中人物の側に取り戻される感じがある(この素晴らしくぐだぐたな喜劇っぽさは、映画におけるナレーションに対して本気でツッコミを入れる劇中人物みたいなものの滑稽さを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。もっとも、ベケットという人のそこでのたくらみの繊細さはそこまで安直ではないけど、これをあくまでイメージとして理解しようとするならわりと近い線いってる感じがする)。しかしあらためて、間接話法の説話主とはいったい誰なんだろうか。上記の匿名の話者(作者)による叙述の場面は直接話法的な三人称客観描写を装ってはいるけど、本質的にはシーリアという発言者の間接話法的言明の再構成であるように思う。その叙述が非人称の話者(作者)によって述べられているにもかかわらず、これを受けて再三再四リアクションの言葉を挿し挟むケリー氏の存在によって、それが作中人物の生きる水準では紛うことなくシーリアによって口にされている事実は(いまさら確認するまでもなく)明らかだろう。しかし再度、「にもかかわらず」、テキストのリテラルな読解においてシーリアは厳密にその間一語も発していないということ。つまり、(間接話法的な)叙述の主とは「あれか、あるいはこれか」式には決定できないもののように思われる。声や現在といった生や時間の固有性や一回性、希少性が奪われてあるのではなくて、小説のテキストという問題の場ではそれが無数に拡散され分有されることの課題が優先されるようにも思う。
 作品の構成に関して言えば、マーフィーという形而上学的な傾きをもった特異な人物の反教養小説的な彷徨(というか停滞)と脱出を描く骨格的な部面と、彼のその反冒険的、反活劇な生の運動とは本質的にはほとんど無縁に繰り広げられるその他の人物たちの、しかし隅から隅まで不在のマーフィーに対する欲望によって織り上げられたオートマチックな関係劇の部面と、二つのできごとが交互に展開されていく。前者に関しては今後ベケットの作品を読むのなら第六章を再チェックしろとだけありうべき自分に覚え書きを残しておく(しょうじき難しくてよくわかんなかった)。後者の、欲望の操り人形と化したかのような五人の主要人物たちの自動機械の連結部品のようなスラップスティックな連動と誤作動ぶりもめっぽうおもしろかった。変な小説だし謎だらけだったけどベケットはおもしろいと思う。

こうの史代『この世界の片隅に』

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 こうの史代の新作に収められた各エピソードはおもに第二次大戦の期間内という限定されたスパンの中で月日が推移していっている(「18年12月」から始まる雑誌連載された本編に、その前史をなす主人公浦野すずのこども時代の様子を描いた三回の読み切り作品が冒頭に据えられている)。話の舞台が広島であること、それが戦時中の銃後の生活の情景を描いていること、『夕凪の街』の作者が新たに語り始めた物語であること、そんなこんなをもとにした予断が働いて、作品を読みながらいつの間にか自分が、「20年8月」で描かれるであろうエピソードを物語のクライマックスじみたものとして念頭においていることに気付き、驚いてしまった。作品の内部では(今のところは)いっさい描かれていない場面を、作品外の(歴史的な)知識を梃子にして自分に理解しやすいフレームとして勝手に仕立てあげて物語を読んでいくこの姿勢は、単純に余りにも反動的だし自堕落な倒錯だったと反省した。しかし、言い訳するわけじゃないけど、読み手にそのような物語の内部における時間的な把握の転倒を許す仕組みが作品そのものによってお膳立てされていたのではないのか、とも思った(もっと積極的に言えば、そこにこそ作者の狙いの一端があるのではないか?という疑問が芽生えた)。
 各回のエピソードに対してごく簡素に題される進行する日付(この上巻では「18年12月」から「19年7月」まで)は、しかし実は、それが通常よくある日記だとか備忘録のそれと同じようには機能していないと思う。物語の中で描かれたこととそうではないこと、のリテラルな区別がとても困難になってしまう問題の領域というものが、たとえば「20年8月」というような歴史的に巨大な事実にはそなわっているようにも思う。それはその事件の存在を一度知ってしまったらその事実を忘れることなど、たとえ身振りの上ですら容易には人に許さないような、途轍もなく強迫的な力をあたりかまわず放射している。「20年8月」の一語が明示的に語られるまでもなく、その近傍に近寄っただけで容赦なくありとあらゆる言説や物語が事件の歴史的な磁場に吸着させられ回収されていく。「19年2月」に呉の片田舎で挙げられたごく慎ましいささやかな(しかし参列の人々の温かな心ばえに満ちた)結婚式は、「20年8月」の磁場の中で、それがあの出来事のちょうど一年半前だった、という具合に逆算的に記念され思い出されていくことになる。この作品の日付の登記が通常の日記のたぐいのそれと決定的に異なるのがここなのではないだろうか。そこでは現在進行中の出来事すらが過去の営みのひとこまとして、刻々と思い出されていく。物語の中で起こるすべての出来事は生起したそばから、「20年8月」という特定の未来の視座からその位置を標定されて、過去の思い出としてピン止めされていく(得体の知れない神が弄ぶ、無慈悲な昆虫採集の標本帳をでも見るような薄ら寒い感触がないでもない)。ここには人間がその生に費やす時間とはまったく別種の奇怪な時間が、いわば逆向きに流れ出しているようにも思う。それをたとえば死者の時間経験とかと言ってみたい気もする(あるいは、死者の言説とか)。死というものの厳密な定義なんて自分にはまったく理解の埒外だけれども、ここではそれを大雑把に、言説(とその機会)を奪われた者くらいに把握しておく。死者は語らない、というよりも、語れない者こそが死者だ、みたいな。その意味では、わたしたち生者もまた部分的には瞬間ごとに(言葉の到来するほんの一瞬の間隙に)確かに無数の死を死んでいるとみなしても構わない(この瞬時の死に継ぐほんの偶然の再話の機会が、わたしたちをとりあえず、しばしのあいだ本式の死から引き離してくれる。生とはつまるところこの、せわしない鬼ごっこみたいなものなんじゃないだろうか)。生と死の間の薄膜はとても曖昧で、死者をもまた、言説の機会を当面永久に奪われた生者だと規定することもできるかもしれない。こうの史代の『この世界の片隅に』という作品のありふれていると言えばありふれてるし、奇妙と言えば実に奇妙な、さらにはそれが明晰に意図されたものなのかどうかも未だ定かではない、説話形式の構えは、死者のその、再び語るための時間を前へと進めることが永久に不可能となったはずの閉じられた口をして、再度、何度でも、新たに語らしめようとする機会を与えることに寄与しているかもしれない。
 説話の時間を錯誤させるこうの史代のこのような実践は、そういえば『夕凪の街桜の国』にも見ることができることを思い出した。「桜の国」の主人公七波が物語の最後に幻視する、自分の誕生以前の父母の出会いの場に逆行的に立ち会い、そこで彼らを父母として選択し、彼らの娘としてみずからの生誕を決断したことが遡及的に再認される場面が、それだった。そこには時間の流れの中で展開する出自や境遇というものを巡る偶然性と不可避性の問題に対するきわめてアクロバティックな馴致が見られたけれども、『この世界の片隅に』という作品を半分だけ読んだいま、またちょっと違った観点から新たにそれを見直すことができるのかもしれない(つっこむと長くなりそうなんで控えておくけど、触りだけメモしておけば、七波がその幻視の場で明瞭に思い出すこととは、「見ていた」ことと「決めた」ことの二つだけであること。「見て」いたことも「決めた」ことも、本質的には言葉の場の外でのみ行われる誕生の営みであり、同時にその誕生は上述の意味での死と見分けがたいまでに酷似していること。そしてつまり、それが「思い出し」に成功した生者の言葉の力によってもはや愛とも死とも見分けがたい、ある無言の様態を確かに救い出してみせていること、等々)。
 (こう簡約して言っちゃってよければ)「生者が死者を思い出す」という『夕凪の街桜の国』の作品モチーフは、「思い出す」という語が通例まとわせがちな思い出す人と思い出される対象との隔たりの意識を廃棄した場所で追求されていたと思う。そもそも生者(七波)は面識もない50年前の死者(皆実)を対象として思い出すことなどできない(いろいろと解釈されそうな皆実の死を描いた/描けなかった一連のモノローグのシーンは、隔たりを介して死者と出会うことの最終的な座礁をその空白の画面に刻んでいたと思う)。生者(七波)が思い出すことに真に成功するのは、ほかならぬ自分の身体の根底で今現在も進行形で作動し続けている死者たち(皆実や母)の血を、みずからの生存の条件に不可欠な固有性としてはっきりと認知することによってだろう。

 ごちゃごちゃ妄言を垂れ流した。『この世界の片隅に』という作品がこの先どう展開していくのかはもちろんわからない。ただなんとなく、それは、「死者が生者を思い出す」という不可能を可能にする死者の言説の存立の条件を問うような方向に進んでいくんじゃないか?ともうっすら予感する。

フィリップ・K・ディック『最後から二番目の真実』

最後から二番目の真実 (創元SF文庫)

最後から二番目の真実 (創元SF文庫)

 久しぶりにディックの作品を読んだ(たぶん3年ぶりくらい)。ディックの小説では「本物そっくりの偽もの」という主題がよく扱われるけれど、この作品では同様のモチーフが繰り返されてありながらも、「本物」(真実)と「偽もの」(嘘)とを巡る闘争関係といった側面がより強く前面に押し出されている。舞台となる世界は地下生活において戦時体制を名目に目隠し状態のまま銃後の労働を搾取されている大勢の人々と、(実のところ、とっくのむかしに終結している)その戦争の継続を騙って地上での生活を占有する小数の権力者たちとに分割されていて、小説の基本的な筋は、この大掛かりな「嘘」とそれが隠す「真実」との秘密の結託の力学的関係の結び目を明かすこと、そのうえで登場人物たちがそこで選択した決断のいくつかの帰趨を示唆することに費やされている。「本物そっくりの偽もの」というディック的な主題を担うSF的なガジェットにも事欠かない。地下生活者(塔員)たちににせの戦況を宣布して労働の士気を煽る地上における象徴的な英雄(タルボット・ヤンシー護民官)の存在は、その実、政府の最高権力者(スタントン・ブロウズ)が偽装する文字通りの張りぼて人形(シミュラクラ)であり、実体のないイデオロギー的な影像に過ぎない。また、塔員たちの代表として禁じられた地上への潜入を敢行する塔長ニコラスのその危険な行動をあえて促したものは、地下では入手不可能な「人工膵臓」という希少なにせの臓器を得ることが目的であった。あるいは、物語を展開させるうえで重要な要素としてある前世紀の遺失技術の産物(「器怪」とか「時間遡行機」)もまた「本物そっくりの偽もの」という性格を強く身にまとっているだろう。(自走式暗殺機械である「器怪」は、作者によって「熱可塑性素材」などと説明されるその謎めいた性質により任務遂行後にテレビそっくりに形態変化して人目を欺く。またいかなる原理によってか、物質をタイムスリップさせることが可能とされる「時間遡行機」は、そこで遺物そっくりの贋作を捏造するため政治的陰謀に供して使用されることになる)。
 事態はこのような小道具的な水準にとどまらない。物語の最重要人物の一人であるデイヴィッド・ランターノは、政府の「声明執筆官」という役職にあってタルボット・ヤンシー護民官(=シミュラクラ)のプロパガンダ映像の作成に深く関わりながらも黒幕スタントン・ブロウズによって支配される世界構造を転覆するためにクーデタを目論むカリスマ的な謎と魅力と畏ろしさとに恵まれた人格として描かれるけれども、その実態は、くだんの「時間遡行機」の力にあずかって600年以上も生き続けるネイティブアメリカンの族長であり、タルボット・ヤンシーの空虚なシミュラクラだと思われたものこそはランターノその人の似姿として作成された事実が明らかとなる。そこで起こっていることとは、単に世俗的な権力劇であるという以上に、「本物」と「偽もの」とのあいだのある地位を巡る争闘であるだろう。支配者側から見れば、地下生活者たちにとってのタルボット・ヤンシー護民官のシミュラクラ映像とは「本物」以上でも以下でもあってはならない。「本物」と「偽もの」という弁証法的な認識劇の外側でその存在は過不足なくメディアの影像に収まっていなければ人民を欺き続けることはできない。政府の黒幕スタントン・ブロウズはそのうえで「偽もの」のシミュラクラを裏で操る「本物」の支配者として地下世界からはけっして窺い知ることのできない不可知の頭上に君臨し続けることが可能となる。このブロウズの簒奪行為に対してデイヴィッド・ランターノは、存在的な次元においてヴァーチュアルな偶像に過ぎなかったはずのタルボット・ヤンシー護民官の空虚な地位を真実の資格をもって埋めるためにその世界へと到来(回帰)することになる。ランターノが帯びるその真実の資格とは、架空の、捏造されたその「偽もの」の居場所を、もはやいかなる「本物」の担保も必要としない真の、留保なき「偽もの」として生きる決意によってはじめて彼にもたらされるものだと言えるかもしれない。(作中の事実としてタルボット・ヤンシーのモデルとなった「本物」の人物が40年以上前のデイヴィッド・ランターノ本人であった事情が語られることになるので、「存在的な次元」において彼には僭主を追い落とす充分な正当性があることも明言されてはいるけれども、しかしそもそもが600年前のネイティブアメリカンの一人であったとも語られるこの、ちょっとオデュッセウス的な相貌が伺われぬでもない人物タルボット・ヤンシーが、では、真に、一体何者なのか?という出自の核心について、物語は何ら説得的な解答を与えてはくれない。デイヴィッド・ランターノはタルボット・ヤンシーである、のではなく、ランターノはタルボット・ヤンシーになる、ということの真の「偽もの」性はそこにあるだろう)。このあたりに、「本物そっくりの偽もの」というような物語の主題がしばしば印象させがちな凡庸な疎外論的図式からは微妙にずれていく線がディックのこの小説には走っているようにも思う。たとえばそれは、ドゥルーズが『意味の論理学』の最初の方のセリーで触れているシミュラクルの表面への浮上みたいな事態をディックは直感的に掴んでいたのではないか?……などという夢想にそれなりのリアリティーを与えもするだろう(それをエンタテイメント作家に固有の資質と啓蒙精神とにおいてドラマとして展開していたじゃないか、みたいに)。
 もっとも、このような贔屓の引き倒しみたいな読み方は、それが登場人物の一人の視点のみを中心的に引き寄せることによってはじめてそう読まれることが可能になるのであって、この小説の主人公といって差し支えない別の人物の行動や決断を虚心に読むと、またちょっと異なる結論が出てくることも確かだろう。友人の命を救うのに必要な「人工膵臓」を手に入れるために地下世界から抜け出し地上へと潜入したニコラス・セントジェームズは、無事目的を果たしたのちに物語の最終場面で再び地下へと戻っていき、戦争開始を口実に自分たちが15年間強いられてきた虜囚じみた惨めな生活と強制労働の一切すべてが「偽もの」であったという真実を胸に秘めつつ、作品末尾のことばを締める。

「とにかく」アダムズは冷然といった。「なんらかの手を考えるさ、おれたち自身の知恵でな」
ニコラスはいった。「それがいい、あんたらにもその知恵はあるはずだからな」ただし、ひとつだけ忘れるなよ――と心のなかでつぶやきながら、妻の体をきつく抱き寄せる。
おまえたちはもう嘘をつけないということを。
なぜなら、おれたちがそれを許さないから。[361頁]

 このニコラスの強い否定の決意がその後具体的にどのように世界にぶつかっていくことになるのかは、もちろん読者には知ることのできない領域に属している。しかし、それが「本物」と「偽もの」との区分を外側から鑑定するような認識論的な識別における課題となるであろうことは充分に窺い知ることはできるだろう(それを端的に疎外論と言ってもしまってもいいだろうし、あるいは丹生谷貴志の語彙を継いで「演劇的な世界」における「分身」的身分の自由にまつわる課題とかと言ってもいいように思う。はたまたドゥルーズなら、それを物質の深みにおける体毛・垢・泥のイデア的闘争と呼ぶかもしれない)。ともあれ、それはおそらく、自己規定の身振りにおけるタルボット・ヤンシー的な「偽もの」になることという生成の課題と、ニコラス的な「偽もの」である(ことを否認して「本物」であることを自任する)ことの存在の公理との微細な差異として、ディックのこの小説の読み手にちょっと居心地の悪い、容易には収まりのつかない不安を与え続けるようにも思う。このパラノイアックな危うさがディックの小説のおもしろさのひとつだとも思う。

アシュ・ラ・テンペル/インベンションズ・フォー・エレクトリック・ギター

 マニュエル・ゲッチングによる74年の録音(ゲッチングの顔をジャケ写で初めて拝見したけど、えらいカッコイイな)。冒頭を飾る「エコー・ウェイヴス」がとにかく素晴らしい。終始基底でぶよぶよと蠢動し律動を続ける重たいベース音を背景に、ステレオで交互に明滅するギターの爪弾きによるエフェクトっぽいフレーズがカラフルに転変しつつ緩急自在に揺れ動いて序盤から中盤にかけてのアンビエント風の持続を軽妙に装う。13分過ぎからいよいよ開始されるギターのインプロヴィゼーションは、それを聴く者に叫び声による合唱を耳にしているかのような哀切さの情感を喚起させて雄弁に響き、いささか唐突の感を抱かせぬでもない切断の潔さをもって17分49秒の楽曲のすべてが程なく終息する。電子音楽の愉楽を充全に開示してほとんど完全無欠の域に達しているかとも思われるこの楽曲にあえて難点を探すとするならば、この、その終演のあまりにも淡泊なさま、切断のタイミングのそっけなさにあるように思われてならない。(マニュエル・ゲッチングは彼のギターのフリー演奏を少なくともこの倍の時間は続けてもよかった。端的に、快楽にとっては、それを終わるせようなどとすることは悪にも似た善からぬ決意にほかならないんじゃないだろうか?)。
 小泉雅史のライナーによれば、マニュエル・ゲッチングはここでシンセやシーケンサーをいっさい使わずに自前のエレクトリックギターにエフェクター、それに4チャンネルのレコーダーからのみでこのアルバムの楽曲を作り上げたということらしい。併せて紹介されているゲッチングのインタビューのことばには、ギターによってシーケンサーの効果を再現することがそこでの彼の冒険の眼目であったことも表明されている。同時代のノイ!のクラウス・ディンガーによるドラミング(ハンマー・ビート)が機械的なタイミングの反復によってより形式的な側面において電子音楽を(生音により)再現させようとしていたとするならば、ここでのゲッチングの模倣は、電子音の形式とともに、よりそのマテリアル(質感)そのものへと肉迫し憑依しようとする挑戦だったろう。(電子音楽における音の形式と質料とかいう区分は便宜上仮設されうるものに過ぎないことも確かだろう。そこでは形式の徹底が質料をいつでも召喚しすぐさまこれと接着しうるし、質料もまた野放図におのれの領土を拡大させていって形式に固有の潔癖さの壁を至るところで決壊させる。電子音楽を巡る定義論争の虚しさはこのあたりから漂うようにも思う)。
 ところで、しかしまた、ここでゲッチングの「模倣」とか「再現」とは言っても、それは正確に何を「模倣」し「再現」しようとしているか?ということをあらためて考えると、ちょっとよく判らないことも出てくる。ここで「模倣」され「再現」されようとしている電子音の身分それじたいがそもそも自然な(人間的な演奏による)それ以前の音楽や楽器の音色の「模倣」や「再現」として現れてあったという仮説が成立しうるだろう(キットラーとか読んでみる必要があるかも)。イデア的なオリジナルに対する模倣としてのミメーシスというようなギリシャ的(アリストテレス的)図式とは異なる、「模倣」の「模倣」、の「模倣」、の「模倣」(……以下無限)というようなシミュラークル的な何かがそこにはあるのだろうか? それとはまた別の観点からプラトン的なミメーシスとして蓮實重彦が『「赤」の誘惑』で語っていた模倣におけるヒエラルキー状の階梯があって(「椅子」という事物を巡るイデア=神の観念からそれを現実に形にする椅子作りの職人、その椅子を表象として描くことのできる画家、それをことばで描写するにとどまる詩人、までの位階)、そこには音楽家の存在はほとんど顧慮されていなかったように記憶している(もっとも、悲劇にはコロスという合唱の契機があったらしいから、無理くり音楽家の「模倣」をその秩序に組み込めば、それは最底辺の詩人の位相に腰を落ち着かせるのかもしれない)。
 ともあれ、ここでは、金井美恵子がその自作の「実験性」云々について水を向けられた際、言下にこれを否定してインタビュアーに応えて言い放った『作家は「実験」などしない。「実践」するのみだ。』という趣旨の発言に倣って、ゲッチングの『インベンションズ・フォー・エレクトリック・ギター』というアルバムは何ものかの「実験」ではないし、ましてや何ものかのための「模倣」でも「再現」でもない、と無根拠に断言してしまおう。仮にそれが、たとえば(ゲッチング自身の発言によって)あたかもレッスンや習作のようなものとして耳にされるとしても、そのレッスンはついに収まるべき安住の座などというイデア的なステータスを金輪際持つことの無い、すぐれて実践的で、きわめて倒錯的な電子音楽と身体との捩れた結婚を言祝ぐものだったのだ、と言い募っておこう。そのようなレッスンの結実が何をもたらしたかと問われれば、たとえば人はそこで、電子音楽と身体との捩れた経験=愉悦の一頂点として確かにある、あの81年の『E2-E4』を思い出すこともできるのだろう。

蓮實重彦『「赤」の誘惑』

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

 買ったきり長いこと棚の奥にしまいこんであったものをようやくサルベージ。抜群に面白かった。というか、面白いとかいう以前に、我が身をかえりみて(自意識過剰ぎみに)慄然とした。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』とか『オデュッセイア』を対象にした章などはとくに。まあ今更あらためてしおらしい顔などはつくらないでおく。
 こういう批評にじかに接してみると、なにやら漠然と蓮實重彦という存在を評する際に口にされる「エリーティズム」だとか「貴族主義」みたいな伝説めいた風評はまったく根も葉も無いデマなんじゃないかなとあらためて思う。テマティスムの方法にある種の厳密さというものがあるんだとすれば、それはそこに書かれていないことに関してはみだりに口にすることを禁欲するっていう掟めいた了解によるのではないか。この本のごく通俗的な(デバガメ的な)レベルから見た読みどころの一つは何と言っても「ラカンVS蓮實」の一戦が読める「X 「赤」の擁護」のくだりにあるだろうけど、そこでの蓮實によるラカン批判において描かれるこの精神分析家の「理論」的雄弁(憶断的な多弁)へのほとんど軽蔑にも等しい存念とともに蓮實的テマティスムの沈黙における厳密さの擁護があるのだと思う(たとえば蓮實がこの本の中で繰り返し自他に念押しする「語彙論的な羞恥心」という倫理的な要請が、ことによったらそれを聞く者に「エリーティズム」やら「貴族主義」といった下から目線の誤解を抱かせているのかもしれない。なにものかに対して抑圧を感じるということは、それじたいとしてはけっして悪いことじゃない筈なんだけど、この手の一方的な誤解による単なる鬱屈の表明は、それを口にする人の顔立ちを極度に寒々しい、強張ったものにするようにも思う)。
 ここで言われているような禁欲的な緘黙はテマティスムにおける厳格さの片面であって、他方にはまた、他人のテクストをダシにして自前の「理論」を語りたがる理論家たちの自堕落に傾きがちな雄弁とはまったく無縁の領域で「フィクション」が(「赤さ」なりなんなりの)細部の緊密な連繋を組織しつつおのずから自身を語り始めてしまうといった不埒な事態が確かにあって、そこでは「フィクション」を語る者はまずなにより、テクストが主題論的な位相で言い募ることばの逐一を忍従にも似た姿勢で聴き取ることの厳格さを強いられることになるだろう(沈黙を守ることの厳格さと、語られたことばのその現前の厳密さがある)。「語彙論的な羞恥心」とはそこで選択された禁欲的態度によって広い意味での主体を立ち上がらせる筈だけれど、テマティスティックな受動の身振りは、極限的には、(能動的に読んだり書いたりすることがいつでも可能だと信じられている)この主体の身分を希薄化させるように迫ってくるのだろう。という意味合いで、二つの異なる位相に属する厳密さに真っ二つに引き裂かれて、一身にして二身を生きるかのようなテマティストの半身はカチンコチンに凍り付いているかのようだ。もはやどうでもいい話だけど、蓮實重彦が「エリーティズム」や「貴族主義」とは程遠いと思われる所以も、一に「フィクション」というものに対するその堅持される態度の厳格さにかかっている筈で、そこでは「書かれていないものは読めないし、書かれてしまったことは読まれねばならない」という(原則的には)ごくごく当たり前の、読むことのいわば平等主義といったものが終始貫かれてあるだろう。たとえばラカンの説くポーのテクスト(「盗まれた手紙」)に関する文章はラカンという固有名抜きには読まれることは不可能だし、最終的にはポーのテクストはそこで消去されてしまっていよいよ彼の「偉大さ」とその精神分析的理論ばかりが屹立することになるだろうけれど、蓮實的テマティスムにおいては、原則的にはポーのテクストからの、慣習的に「蓮實重彦」と呼ばれもするあの固体の(束の間の接触と滞在に次ぐ)緩やかな退場こそが目論まれてある筈で、それはテクストをあるべき場所へと帰し、同時にそのことばの場を不特定多数の読み手へと解放しようとするものだろう。「エリーティズム」や「貴族主義」的な姿勢にとどまるのがこの場合どっちなのかは言うまでもない。(まあ「原則」としては、なんだけど。「原則」としてそうなんだけど、実際は誰もが蓮實さんのように読んで書けるなんてことは無論なくて、そこにはテマティスムの名において地べたにまで降下した筈の民主主義がぐるっと反転して近代以前の王権制に繋がってしまうかのような驚きがある。蓮實の抑圧といったものがあるとするならここをおいてほかにはないだろう。人は憚ることなくこれに激しく嫉妬すべきだと思う)。

 大づかみに「フィクション論」などと呼ばれもする、それじたいめちゃくちゃ広大な理論と実践の形作る領域を巡るここでの蓮實重彦の仕事は、厳密さの二つの型に従って二つの方向へと一挙に、同時に、進行を開始していくことになるように思う。「フィクション」とその秘密を解明しようとする「理論」とが取り結ぶ(取り結びそこねる)さまざまな言説的場面を渉猟しながらこの本の論理が語っていることとは、乱暴に要約して言ってしまえば、「フィクション」に接する者には二つの運命があるということなのだろう。まず一方では、「フィクション」を前にあらずもがなの「無償の饒舌」によって自粛の厳格さを堅持しえなかった者たちがひきもきらずに辿っていく、それじたいが出来の悪い作りごとのような無自覚さのもとに進展する「理論」の「フィクション」的風土への転落を個々に跡付けていく筋道がある。しかし返す刀で、細部(「赤」)の主題が多方向的に連繋しつつ繁茂させるそのテクスチュアルな織り目の厳密な連動ぶりに目を奪われながら、「フィクション」の「混沌として退嬰的な」状態をそれそのものとして宙吊りの身を崩さずに受け止めようとするテマティスムの倫理の実践が展開される。テマティスムの厳密さが二つの態度(一つの営為と一つの反-営為)に一挙かつ同時に就くとするなら、ここでは「フィクション」もまたそれに相応しく二つの顔を持って私たちの前に姿を現しているのだろう。

 ……たとえばまた、蓮實的テマティスムの厳密さ云々を議論するならばここで採取される「赤」を基調にした主題群のあまりの恣意性についてはどのように考えるのか?(「赤さ」は作品の解釈にとってはたして普遍性をもちうるか?)みたいな批判がありうるかもしれない。しかしもうその疑問じたいがすでに罠であって、そう問う人は逆にみずからに「では主題論にとって真に相応しい普遍性を備えた主題とは何か?」と問い返してみればいいと思う(告白を強いるようで悪いけど)。というか、そのように疑問を投げ掛ける人は、すでに、潜在的に、みずからの問いに(「赤」以上に)「相応しい」なんらか「真の」答えを持っている人であるに決まっているだろう。「フィクション」のことばの遥か手前で得手勝手に捏造された「真に」「相応しい」「普遍的」な正解を抱いて、しかし結果「ミイラ取りがミイラになる」を実地に演ずる恰好で、おのれの手が取りこぼした「フィクション」の登場人物の位相へと回収されるほかなかった人たちを蓮實重彦が『「赤」の誘惑』においてなんと総称していたかは、こんなところであらためて繰り返す必要はないと思う。つまり、蓮實重彦のテクストの厳密さは批判者への批判をすでに孕んで、それを読む人をこそ読み返そうする。その可逆的な眼差しの過酷な関係の力学こそが「フィクション」と呼ばれる経験のひとつの特質であったことも、これまたあらためて繰り返す必要はないだろう。