J.G.バラード『コンクリート・アイランド』

コンクリート・アイランド

コンクリート・アイランド

 七0年代中期を通じてバラードによって書き継がれた『クラッシュ』から始まる一連の作品は、一般的に「テクノロジー三部作」などと称されるらしい。七四年発表の『コンクリート・アイランド』はそのテクノロジー三部作の二作目に当たるわけだけれど、そのような呼称が妥当か否かといったはなしはこの際措いて、ひとまずそのラベリングを受け入れるとするなら、そこで小説が主題化しているテクノロジーとはつまり、人材や物資の高速移動を可能にしたハイウェイ空間の誕生が、しかし同時に、閉ざされた不可視の拘禁空間をも孕みこむ(「拘束道路」!)、というような今日的なひとつの矛盾の型の不可避的な生成を告知するものとして前景化されているだろう。移動のために開発された空間が、その糊しろのような見えない余白部分に、罠に落ち込んだ人間を社会から引き剥がし、そこに永遠に留め置く蟻地獄のような陥没地帯を生じさせる。テクノロジーによって準備されもした閉鎖状況からの脱出の物語――とはしかし、近年ある種のアクチュアルな論者たちによってテクノロジーに関わる真に今日的な問題と指呼されもしよう監視社会的な、ユビキタス的な状況認識の水準から見た場合、端的にこれを、時代錯誤も甚だしい的外れの問題提起としてあえなく一笑に付されるか、あるいは良くて、テクノロジーと社会との関係における問題系の変遷の、文学史から摘出されるべき興味深い一挿話――文化史的な史料価値といったものが無くもない――せいぜいそのような扱いで満足しなければならない作品であるだろう。今まさに問題となっているテクノロジーの孕む由々しき本質とは、人を囲いの外部に放逐したり孤絶させたりする疎外的な働きにあるのではない、――事態は全く逆方向へと推移しており、つまり今日の環境管理型社会状況にあって、わたしたちには囲いの外部に脱出する、あるいは無名の何者かであり続けるという自由の契機が到るところで奪われつつあるのだ――という具合いだろうか? なるほど、それはその通りなのかもしれない。解説における山形浩生氏が戸惑いともどかしさを隠すことなくバラードへの注進に及んでいるように、この期に臨んで改めて、「真の」『コンクリート・アイランド』といった小説(いわば『コンクリート・アイランド2.0』とでも称すべき作品?)が更新される必要があるのかもしれない。*1

*1:詮無い「無いものねだり」を承知でさらに妄想を逞しくすれば、有り得べきその小説のプロットは、高速道路と高架下のフェンスが形作るあの三角地帯から抜け出し家族のもとへと帰還した男の後日譚――、再度、廃棄された車たちが転がるあの渺茫とした草原へと戻ろうとする、今度こそは「真に」不可能なアンチ失踪小説というような相貌を持つことになるのではないか? 裏返しにされた安部公房の『砂の女』、あるいは『ロビンソン・クルーソー』の物語の裏面とでも言うような。