杉浦茂『怪星ガイガー・八百八狸』
- 作者: 杉浦茂
- 出版社/メーカー: 青林工藝舎
- 発売日: 2006/11/22
- メディア: 単行本
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両作ともとても賑やかな印象。賑やかと言うより「お喋り」という感じだろうか。ざっと流し見て確認してみたところ、擬音や吹き出しのセリフ、作者の挿評やト書、状況説明のナレーション、各章の表題なんかまで含めると、何らかの言葉が書き込まれていないようなコマが、全一七0頁中たったの四コマしかなかった。杉浦茂のマンガを読んでいる最中つねに感じるあの愉快なお喋りの感じは作品内部でのキャラクター同士の言葉のやり取りを傍で見ているからだけじゃなくて、突如(ほんとに唐突に)キャラクターたちから読み手に向けて語りかけられるやけに親しげな挨拶の言葉や作品への信任を問いかけるドキッとするような明け透けな質問の効果にもよるものだろう(「このまんがはどうでしたか」とか「まあおかしでも ひとつつまんでください」とか突然話しかけられて、非常にびっくりする。同時に、何とも言えない、腹の底がヒクついて困って仕方ないというような可笑しさ、あるいは気味の悪さがある)。
日本近代小説の課題だった言文一致運動は物語の語り手(講評者)のあからさまな現前性を読み手の意識から消去するというリアリスティックな(しかし、それじたいはフィクショナルな)信憑を獲得するための改革だったということらしいけれど、杉浦茂のマンガのこの(説話的な)あけっぴろげな大らかさには確かに、ある種近代以前とでも評するのがさしずめ適当であるような感触がある(「近代的」なトピックを構成するかもしれない当時の社会的な受容状況だったりイデオロギー的な付置状況なんかは不勉強でまったく知らない。杉浦茂の戦中マンガとかはどうだったんだろう?)。
逆説的なことを言えば、「怪星ガイガー」の登場人物である「ロケットボーイちゃん」や「リップちゃん」がわたしたち読み手に向けて真正面から「おちゃもあるわよ」などと突如語りかけてくる時、その親しげな「近しさ」の感覚の生起は、そのまま、「隔たり」の意識へと裏返るような気がする。物語の世界に対する読み手の信憑は、紙の上に描かれたキャラクターがこちらへ話しかけてくるというある種とても異常な事態によって、一挙に崩れ去る。その時、メディウムとしての「紙」が遮蔽幕のようにして視界に降りてきて、生き生きとしていた筈のこの物語の世界を厚みも容量も奥行きも欠いたぺらぺらな、文字通り紙一枚の手触りをかろうじて残すだけのものにする。うっすらと寒けのようなものが走る瞬間がそこにはないだろうか?
そういえば、晩年の杉浦茂は、本秀康の単行本デビュー作『たのしい人生』の帯にコメントを寄せていた。
……とつぜん見せられた「白昼夢」異様につづく不思議な世界……私は彼のマンガを支持します。
……杉浦茂の描く世界はしかし、その「白昼夢」を心地よく夢見ている者を「とつぜん」青ざめさせるようなところがあると思う。