J.G.バラード『時の声』

時の声 (創元SF文庫)

時の声 (創元SF文庫)

 バラードの宇宙においては、真理が開示されること、あるいは真理を入手するということは、バラード的人物たちにとって、同時に、災厄によってその身を滅ぼすことと同じ意味を持っているだろう(その意味で、ポーの怪奇小説だとかラブクラフトクトゥルフ神話ものと酷似している)。「知る」ということは、バラード的主体にとって、その知られるべき対象の時間的・空間的な(天文学的規模の)無限大の大きさを前にしての、ほとんど無にいたるまでの縮滅を強いられるディアスポラ的なプロセスとなる。だから、真理への漸近的な獲得の過程(ないし、バラード作品にしばしば現れる、主人公の行く末を予示し「死」を先取りする「知っているはずの他者」への転移過程)は、バラード的主体においては、負債すら負うことの出来ない無一物への転落過程と同義であるはずだ。(モロに冷戦時代に書き継がれているわけだし、まったく故無しとは到底言えないんだろうけど)ひょっとしたら「歴史の終焉」みたいなシニカルな視点から読まれ楽しまれているのかもしれないバラードの作品群が、そういうベタにヘーゲル的な感性とは別に今なお興味深いのだとすれば、それは、(初期)バラードの宇宙において希望も絶望もなくあてどなく彷徨い歩き始めることを強いられるあの作中人物たちの姿が読む人じしんの姿勢とどこかしら通底するところがあるからなんじゃないかと、漠然と思う。

「マレク」どうしてか自分でも分からなかったが、彼はふりかえると“監督者”と向き合った。
「きみはぼくの言わんとすることを分かってくれるな――つまりぼくが絶対的に無実だ、ということが。ぼくにははっきりそれが分る」
「もちろんですとも、コンスタンチンさん」“監督官”の顔は和らいでおり、寛容な色さえ浮かんでいた。「よく分ります。あなたは自分が無実なことを知った――だからあなたは有罪なんです」
彼の手はベランダのドアをあけた。一陣の風とともにどっと枯葉が舞い込んできた。
「ゲームの終わり」(J.G.バラード『終着の浜辺』所収)

……「無実」であるということが、同時に、いかなる責任や権利の場からも放逐された寄る辺の無さと同義である位相において、バラードを誤読してみるテスト。