見てはいけない,見られてはいけない

 池袋ジュンク堂でぶらぶらしていたら花輪和一の『刑務所の中』の文庫版(講談社漫画文庫)を見つけた。前に手元にあった単行本のほうは既に失くしてしまっており、帯のコピーを確認してみたら新たに何本か書き下ろしも収録されているみたいなんで、良い機会だしあらためて買いなおしてみることにした。


 花輪和一という人はとても不謹慎な受刑者だったみたいだ。最初のほうに出てくるエピソード(「それじゃさま懲罰房」)とか描き下ろしの「軽屏禁十日」という話では、実際に「不正連絡」というような比較的重たい規則違反(雑居房の囚人仲間たちとの出所後の「大麻狩り」を期しての電話番号交換)を犯して懲罰を食らったりしているし、あるいはまた些細なところでも、不用意に風呂場で手ぬぐいを「姐さんかぶり」にして職員にしこたま怒鳴られたり、着衣の腕まくりを見咎められて注意されたりといった作者の姿がちょこちょこ漫画の中に描かれている。しかしまあ、そのような「刑務所の職員にそのさまが露見するとヤバイ態度や行為」というような誰かに「見られてしまう」ことにまつわる不謹慎さが問題なのではなくて、実はここではまったく反対に、花輪和一という奇怪な作家の、何事も「見てしまう」、「記憶してしまう」という性懲りが無いといえば無い、しかしまことに稀有な資質こそが本当に「不謹慎」という尊称に値するものだったのではないだろうか、と思う。

 『刑務所の中』という漫画には、それに接した誰もが一読して唖然とするだろう通り、拳銃の不法所持で3年の懲役刑を受けた花輪和一受刑者の毎朝毎晩口にした食事の献立の詳細なスケッチが作中折に触れこと細かに描きこまれ、あるいは収監された「函館某刑務所」の工場やら雑居房の間取りや家具調度の様子の写実的で丁寧な描写、刑務所内で囚人たちに課される規律やそこで振る舞われる何気ない仕種や習慣、身に染み付いた習い性の数々なんかが、逐一、もはや執念をすら感じさせる細密な線画(時に着色稿も交えて)でもって綿密に図解されていく。その緻密な線画には、しかし偏執狂的な息苦しさは感じられない。ニコチン中毒者のヤニ切れが産んだ妄想が描かれていたり(「ニコチン拘置所」)、所内での運動不足と飽食が惹き起こした肥満恐怖が強迫神経症じみた想念として絵に結実されてあっても(「プクプク拘置所」)、その歪な体験が花輪和一固有の比喩を通して描かれているので、伝染的な危険は希薄だ。(描かれた絵の妄想的な領域が読み手にじかに「飛び火」するなんてことはない。これは花輪和一の描く世界の限界であり、同時に、優れた長所、美質でもあると思う)。ことによったら充分神経症的とも受け取られうる花輪和一の描くこの細密な線画の世界は、しかしむしろ、「見てしまった」ものを見えたまま淡々と写生していく筆を握った子どもの無邪気さみたいなものをこそ、より強く読み手に感じさせるのではないだろうか? そこでは私的な妄想の領域さえグロテスクでユーモラスな比喩の具体的形象(昆虫やある種の動物たち、ザラついた脳が「砂のように」流れていくさま、連呼される「願いまぁーす」の掛け声の噴煙のような柱の束、等々)でもって活写されている。


 花輪和一の描いたこの「獄中記録」を読む限り、刑務所という拘束空間においては、囚人という身分にとって、何事につけ「見てしまう」ということは何か重大な規律に反することのひとつとなりうるという事実が示されている。職業訓練と称される「五工場木工場」での受刑者たちの囚役の時間を律する三つの規則のうちの一つは「脇見禁止」だ(「願いますの壁」)。移動中に窓の外を眺めることは禁則事項であるし、「軽屏禁十日」の罰則期間中は一日一回見回りにやって来る「お偉いさん」の顔をチラッとでも覗き見ることは許されない。「見られてしまう」ことがしばしば不測の、致命的な不利益をもたらす囚人たちの監視された状況にあって(「日本崩壊食」等)、見てはいけないもの、スケッチは無論のことメモをとることすら禁じられている事どもに囲繞されたその環境において何かを「見てしまう」ということも、同様、彼らにとっては限りある生の刻限をあたら磨り減らす惨たらしい結果へと直結している(‐パズルして/しょっぴかれちゃう/塀の中‐「おぼっちゃま受刑者」)。見られてはいけない。そして、見てしまってもいけない。


 花輪和一という漫画家は、そのような拘禁空間において「見てしまう」こと、「記憶してしまう」ことを、(意図したものかそうでないかはともかく)けっしてやめなかった人だ。自称「ムショオタク」の、精度だけは矢鱈とずば抜けてはいるけれど、それじたいにおいては明らかに単なる無用の長物にすぎない明視する力、記憶する力は、その時、不思議な、穏当でありながらも頑なに何者かへと反逆する一つの静かな力に転化している。見てはいけないものを「見てしまう」という不謹慎な習い性が、あまつさえその禁止された事どもを漫画の題材としてまで消化してしまうことへと、さらなる不謹慎を呼び込んでいる。

この漫画は、やっぱりとてもおもしろいと思う。