クラスター

▽今更なはなしなのだけれど、ここ最近、70年代(東西)ドイツの音楽(いわゆる「ジャーマン・ロック」とか「ジャーマン・エレクトロ」とかと括られている作品群)を聴きはじめている。今のところ、ノイ!のアルバム三作とクラスターのを一枚聴いただけだけど、いずれもとても面白い。ノイ!についてはまた別の機会にあらためて触れるとして、昨日買ったばかりのクラスターの『クラスターII』(72年/ブレイン・レコード)というアルバムはとても変てこな作品だ。ディーター・メビウスが参加したアルバム『ゼロ・セット』は以前に聴いていたのでクラスターに関しても何となくあたりをつけて聴きはじめたのだけれど、これがまったく予想をくつがえすような出来の作品で完全に意表をつかれた格好だ。
そもそもこの作品は、おそらく「音楽」(ミュージック)ですらなくて、三田格が好んで使っていた用語にならって「音響工作」と呼ばれるのがもっとも相応しいような作品だと思われる。そこには、ヴォーカルはもちろんのことリズムらしいリズムも存在しなくて、電子音響のゆらめきみたいな気配の交錯だけが目的も意味も欠いたまま、ただひたすらに鳴り響き続けているという印象だ(アルバムを聴きながらこの文章を書いていたら、最後の楽曲に「うめき声」みたいな声が録音されているのに今気付いた。ので、正しくは、完全にヴォーカルを欠いている、というわけではない)。
「目的も意味も欠いた」音響とさっくり書いてみたけれど、でも実は、作ったクラスターの二人は何らかの目的や意味をそこに込めているのかもしれない。そのあたりはよく判らない。そして重要なことは、この聴き手にとっての「よく判らない」という感覚にこそあるのだろう。この判らなさ加減は、もはや楽曲じたいを「制作物」や「作品」という概念よりも、「自然」の方に近付けているようにも感じる。(比較のために)簡潔に定義して、たとえばアンビエント音楽というものが環境音楽なのだとすれば、『クラスターII』はその環境じたい、あるいは「環境」という考え方がいつでも文化的な人間にとっての環境(のみ)を意味しているのだとすれば、その(人間的な)環境以前/以後の「(自然的)自然」を露呈させうる潜在力を蔵しているかもしれない。それも「よく判らない」。そもそも、わたしたちの接するかぎりでの自然界にはシンセサイザーによる電子音響に相当する周波数の音のブロックなどは存在しないから。しか
し、にも拘らず、ノイ!の諸作で頻繁に導入されている汀に波の打ち寄せる音や風音、雷のゴロゴロいう響きや雨音の録音なんかよりも、このアルバムの違和感に溢れた電気信号のような電子音の方がはるかに、聴き手へ剥き出しの「自然」を感じさせるということはおそらく事実なのではないか?(それを、「宇宙的」とか「コズミック」とかと名付けてしまうと話は途端に詰まらなくなる。野田努氏のような「聴き巧者」やデトロイト・テクノの作り手はそう命名するかもしれないけれど、イメージ上の戦略ないし便宜の上では重宝するかもしれないその手の把握の仕方も、便宜が実質を知らぬ間に隠蔽し捏造するという危うさを肝に銘じておくかぎりの用心があってこそのことだろう。些末で厳然たるつっこみを再確認のために入れてみるが、端的に、「宇宙」では人の可聴域には音は伝わらないわけだ)。
判断力批判』のカントは、美というものを、「その目的が判らないけれど目的に適っている感覚を受け手にもたらすもの」、というふうに定義していたように記憶しているけれど、すると、そもそも「目的」が読み取れないこの作品はカント的な文脈でいう「美」でもない(むろん「崇高」といった代物にも程遠いだろう)。聴いていると「抽象的」というようなことばが思い浮かぶけれど、ちょっと考えればそのような観念が間違っていることにも気付く。(Jポップでもいいし演歌でもなんでもいいのだけれど)ふだんわたしたちが耳にしてよく聴き慣れている目的も意味も明白な音楽なんかの方が、そのメッセージの内容を抽出してくる源泉(恋愛やら友情、メランコリー、あるいは反戦から郷愁、闘争からセンチメンタリズム……等々にいたるまでの、その個別特殊的な経験的現実)に対して、よっぽど強力な(想像力と言語における)抽象化の作業を必要としているはずだ。だから、『クラスターII』に収められている楽曲は、聴き手
の想像力というものに対して、むしろ、過剰に具体的すぎるのだと思う。人間の想像力(再現的構想力)には適切な距離の意識のようなものが必要で、対象が/にあまりに近づきすぎるとそれを全体的なまとまりとして把握するための枠組みや対象そのものの輪郭じたいが崩れてしまい、望ましい目的や意味といったものが剥がれ落ちてしまうのだろう。電子音響による徹頭徹尾「人工的」な仮構物であるはずの時間の体験が、なにか未聞の、寄る辺ない「自然」の現れのようなものとして経験されるということの錯覚の原質はこのあたりに潜んでいるのではないか、と感じる。……しかしまた、それも当然のように、「よく判らない」。そもそも、人は、「剥き出し」の自然などというものにおいそれとは遭遇できないことも確かだろうから、結局は、何もかもが「よく判らない」のであった。

[2006・3・18]
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