電子音が偽造する自然

クラスターII(幻星)(紙ジャケット仕様)

クラスターII(幻星)(紙ジャケット仕様)

 クラスターの『クラスターII』という作品から受ける音響的な感覚を仮に「自然的」だと形容するとき、そこでそのような曖昧な評語で言葉に翻訳されようとしているその音楽体験の質とは、まず第一には、その音の連なりのほとんど「物質的」とも言いたくなるようなある厚みを備えた不透明さのことであって、そのような音響的な触感に対する聴覚の違和感を表明するものとして「自然」的というような、ひょっとしたら的外れかもしれない言葉が苦しまぎれに口にされている。明確なリズムやメロディの不在であったり、使用される音色の耳慣れない奇嬌さ、音階の野放図な変化等々の音響的な振る舞いのいちいちが、音楽を「聴く」という意識のまさにその場所に次から次へと乗り上げてきて、清算されないまま積み重なり合い、なおかつ音楽が終わってみれば、それらはほとんど跡形も残さずになんらの感興も生じさせず記憶から消え去っていってしまう。音響の不透明さとは、この、音の堆積(ひっかき傷にも似た時間的な痕跡の無数の重なり合い)のことで、つまり音は、「音楽」として享受されてスムーズに意識に流れていくというより、そのはるか手前で「聴く」という意識そのものを強く刺激してしまうので、精神はそれを一連の滞りのない流れとしてはうまく処理できない。(「音楽」として「楽しむ」ことができない。あるいは、少なくとも、それはとても「難しい」)。精神にとって処理しがたいものとは、同じことだけど、人間にとって扱いづらいものであるから、そのような音響に一定時間耳を曝して人は、意識に外在的なある不特定の自然物の現われを前にしたような対立感や違和感を抱くことになる。「自然」であるかぎりにおいて、そこには無秩序ではなくたしかに規則めいたパターンのようなものも感知できるのだけれど、それが人間のための秩序であるとは、誰も胸を張って断言することはできないだろう(少なくともぼくにとって、その音楽はお世辞にも快いものだとは言い難いし、何度も繰り返して聴きたいと思わせるようなものでもない)。電子音が偽造する「自然」とは、仮に、そうした音の振る舞いに名付けられた仮称だ。
あるいはまた、「芸術は自然を模倣する」というような意味の古い名言があったように思うけれど(その言葉の真意などはまったく理解していないまま、憶測だけで援用がてらここにそれを取り上げてみれば)、『クラスターII』に収録されている音響群の数々は、おそらく、いかなる既知の「自然」にも似てはおらず、どのような「自然」の面貌の模倣であることも志そうとするものではない、ように思う。強いて言うならば、それらの音響は、みずからが構成する電子音響それ自身の質感にのみ似ている、と言えるのかもしれない(……こういう話のひろげ方もまた、「芸術のための芸術」というような、ひょっとしたらとっくの昔に清算済みの問題の蒸返しにすぎないのだろうか? われながら情けなくなるくらいに無知だ……)。


 たとえば、「モノマネタレント」や「有名人のそっくりさん」といった類の人は、有名人に似ているそのかぎりにおいて当の有名人とはまったくの別人であるけれど、「有名人のそっくりさん」が有名人にそっくりな自分自身をそっくりに真似しはじめた場合、あるいは、有名人が有名人である自分をそっくりにモノマネしはじめた場合という状況を考えてみると、その時、すでに「模倣されるもの」と「模倣するもの」という位階の安定はなし崩しになってしまっている。端的に、そのような状況に接して、見ているわたしたちはむろんのこと、演じている本人ですら、もはや模倣と本物との区別がつかない。「模倣の模倣」というようなメタ関係の導入が、しかし、メタ関係それじたいの安定をつき崩し、そのような関係そのものの不可能性を導きだしているのではないだろうか?
既存のあらゆる「音楽」ジャンルと「音楽」技法への紐帯が切断されつつある場所で、「電子音響それ自身にのみ似ている」とトートロジックに定義するよりほか適当な言葉の見当たらない音響の塊をわたしたちの鼓膜に響かせるこのアルバムの諸作品は、すくなくとも「模倣された自然」ではないことは確かである……という条件のもとにおいてのみ、かろうじて、「自然としての自然」とも呼びうる何かではある。
電子音が偽造する「自然」とは、消極的な規定では、そのようなものに対する仮の名でもある。


 74年発表のクラスターのサード・アルバム『ツッカーツァイト(電子夢幻)』は、しかし前作とうってかわって、しっかりと「音楽」になっている。
そこには、風変わりではあるけれど耳に馴染みやすい美しいメロディが揺曳していて、なによりポップ・ミュージックには不可欠なリズムの反復が生ドラムの演奏とリズム・マシーンの導入によってあらためて結実されている。この音楽的方向性の大胆な刷新がどういう事情と経緯からクラスターの二人に決断されたのかはまったく分からない(アルバム発表の前年にはノイ!のギタリスト、ミヒャエル・ローターが、クラスターの二人に接近して新たなバンド、ハルモニアを結成し作品を発表しており、ローターはこの『ツッカーツァイト』にも参加している。ノイ!といえば、クラウス・ディンガーのモータリック・サウンドであるわけだけれど、ローターのクラスターへの影響もむろん考えるべきなんだろう。ディンガーのジャスト・テンポなミニマル・ビートとメビウスの作り上げる変則的で変調を多用したドラム・パターンは、表面的には似ても似つかないのだけれど)。
全十曲が収録されたこのアルバムは、とてもポップで奇妙で愉快な音に溢れている。
前作同様ヴォーカルは皆無なんだけれど、シンセサイザーが理解不能な未知の言語で語りかけてくるような不可思議な愛嬌、あるいは同じことだけれど、薄気味の悪さがある(余談だけど、このアルバムをしばらく聴いていると、テレビの歌番組に出てくるような普通の歌謡曲がとてもいびつなものに感じられる。押し付けがましくて、息苦しくて、ほとんど嫌悪感に近い感情に、なんてことのない歌謡曲が3分聴けなくなる)。
 前作で(僕には)ほとんど識別できなかったクラスターのメンバー二人(ディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・レデリウス)の作家性、音楽性の違いといったものが、このアルバムでは、よく見分けることができるように思う。


(……と、ここまで書いたけど、脆弱な脳髄が弱音を吐き始めました。つづきは、別の機会でもあればその時まとめて)。


ツッカーツァイト(電子夢幻)(紙ジャケット仕様)

ツッカーツァイト(電子夢幻)(紙ジャケット仕様)