ノイ!ノイ!2ノイ!75
……せっかくだしノイ!(NEU!)について何か書いておきたいな、と思いながらファーストに収録されているオープニングの名高い名曲「ハロガロ」を聴きながらしばらくあれこれ考えを巡らせていたのだけれど、結局はかばかしい事柄は何も思い浮かばず、諦めてふとわれに返ってみると、ヘッドフォンからは未だ、あの、ディンガーの叩く正確無比なドラム音の反復とローターのギターのフレーズ、シンセの棚引く雲のような電気仕掛けのメロディとが、相変わらず延々と高鳴り続けていたことにあらためて気付いて、そのことに(理由は分からないけど)全身に軽く震えが走ったのだった。


ノイ!の作る音楽をひとことで表現する便利な言葉に「モータリック・サウンド」という評語がある。
それは、まるで自動車に乗ってハイウェイをドライヴしているかのような反復性や疾走感に溢れたノイ!の音楽感覚を表現している。ノイ!の二人(クラウス・ディンガーとミヒャエル・ローター)が残したアルバムは僅か3枚だけで、そのうちでも、モータリック・サウンドと明確に名指すことが出来るのは、上述の「ハロガロ」に加えてセカンド収録の「フュア・インマー」と「ノイシュネー」、それにサードの「イージー」、この4曲だけだ。だから、モータリック・サウンドとはノイ!を語る上で欠かすことの出来ないポイントではあっても、それだけで事が済むというはなしでは、無論ない。(特にファーストに顕著な、音響工作的なアプローチのいくつかの作品と、早くも75年のサードで達成されているディンガー主導のB面の作品のプレ・パンク的な歌もの、その両者の結び目としてエレクトリック・ミュージックの歴史から見ても、ノイ!というバンドの重要な役割は見逃せないはずだろう。あるいは、セカンドB面で示した、経済的時間的な窮乏の中から文字通り「苦肉の策」として発明されたリミックス的アプローチや原始的スクラッチの技法の計り知れないその後の影響なんかも、決して無視することは出来ないだろう)。にも拘らず、ノイ!の音楽に関して正直本当に興味があるのは、そのモータリック・サウンドと呼ばれる側面だけであるので、片手落ちを承知で、ここではその点にだけ軽く触れておくことにとどめる。


分かりやすいところでクラフトワーク石野卓球のいくつかの作品を思い出せば明らかなように、テクノやエレクトリック・ミュージックでは「乗り物」をモチーフにした楽曲が制作されることがある。そこで作り手にイメージされている音楽の感触とは、アウトバーンやヨーロッパ特急、新幹線等々といった「乗り物」に乗りながらそこで体感される、乗り手の身体全身をゆさぶる時間的に規則的な律動の反復性であるはずだろう。そこでは乗り手は、身体の自発的な運動の能動感を欠いたまま(静止したまま)、移りゆく景色の流れにそってある目的地へと到達する(運動する)ことになる。乗り手にとっては、運動を奪われていることが(車内にじっと閉じ込められていることが)運動への唯一の通路になっている、という逆説がここにはある。無論ここで言われるような運動(もはや拘束とほぼ区別のつかないような移動)とは、運動というものの原義に対して、あたうかぎりもっとも正反対の意味をもつものであるだろう。それは、屠殺され鉤爪に吊り下げられた牛の死体が順序よく解体されていって最終的にスーパーマーケット向けの容器にパッケージされていく過程と何も変わりがないかもしれない。ベルトコンベアの上の工業製品だとか満員電車に詰め込まれて会社へと送り出される群衆だとか、20世紀このかた、わたしたちの現代にもっとも特徴的な運動(移動=移送)の光景がそこには白々と広がっている。どこへ向かおうと、鉄道は線路の上から、自動車も敷かれた道路の上からそれることは出来ない。目的地にはかならず着いてしまう。その意味で、余暇の観光、レジャー行楽、会社勤め、ベルトコンベア、食肉工場、その他もろもろは、まったく同じ運動=移送の、個別の領域でのバリエーションにすぎないとすら言えるだろう。


 ファーストのライナーには音楽評論家の野田努の紹介するミヒャエル・ローターによる以下の発言が見られる。

クラフトワークはより知的だったけれど、全体的にみてダンサブルではなかった。ノイ!の音楽はヘッド・ミュージックだけではなかった。

 ここでローターの言う、みずからのバンドの「ダンサブル」な音楽性とは、ほぼ今まで取り沙汰してきた「モータリック・サウンド」を指すものとみて間違いないだろう。延々と反復し続けるディンガーによる的確な8ビートのドラム演奏の規則性は、なるほど、頭打ちのタイミングの取り方が高速道路の継ぎ目へのタイヤの乗り上げ(!)を聴く者に思い起こさせもしようし、たゆたうようなシンセ音の旋律の到来と消失は視界に現われては流れ去っていく雲の動きや風の流れを感じさせもする。ローターのギターの爪弾きは内燃機関の振動音みたいに震えながらフレーズを反復させている。あるいはまた、微細なハンドル操作みたいに音階上を小さく屈折する(ちなみにこれは「ハロガロ」を聴きながらの印象だ。モータリック・サウンドは4曲きりだと最初に書いたけれど、ローターのギターは「ノイシュネー」ではほぼエフェクト的な伴奏にとどまり、「イージー」ではすっかり消えてピアノ演奏が主旋律を担っている。だから同じモータリック・サウンドでもその感触はだいぶ異なる)。
 肝心な点は、それらの楽曲の作り上げる感興が、ローターの言うとおり、確かに「ダンサブル」であるというところにある。おそらくそれは、「自動車でハイウェイをドライヴしている」感覚に「似ている」のではない。はなしの辻褄は逆だ。たとえば「自動車でハイウェイをドライヴしている」時にわたしたちの内部から引き出される(生み出される)感覚に潜む運動感こそが、「自動車でハイウェイをドライヴしている」という感覚そのものを可能にしている。
 その身体に潜んだ運動感なしでは、「自動車でハイウェイをドライヴしている」感覚といったものじたいが、わたしたちの内部に生じようはずもない。実際に「自動車でハイウェイをドライヴしている」時に感じる感覚の方こそが、わたしたちの内部の運動感覚に「似ている」のだ。ミヒャエル・ローターの語った「ダンサブル」の一語は、このわたしたちのあらかじめ内蔵する運動感覚を音楽的に簡潔に、率直に表明したものであるだろう。同じことはこうも言える。

 モータリック・サウンドに耳をさらしながら、そこでわたしたちは、自動車や列車といった乗り物に乗っているかのような感覚を擬似的に追体験するのではない、――端的に、そこではわたしたちの身体それじしんが、運動する一個の「ダンサブル」な「乗り物」なのだ、と。
乗り物に積み込まれベルトコンベアの上を積み荷のように流され、結局は鉤吊るしの刑に処される、それがわたしたちの生のどんづまりのオチであるのだとしても、かつて、確かに、一度は、移動でも移送でもない、端的な運動にその身を貫かれてあったという事実を覚えておいてもよい、とは思う。
 ノイ!の音楽を聴いていて感じる思いはそのようなことだ。