マンガ的経験の質

 高野文子の『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』というとてもウェルメイドな作品は、しかし「ウェルメイド」という言葉が通常まといがちな安易さであったり退屈さの印象なんかとは程遠いマンガ的感触を読む者に与える。
 物語の内容としては一人の女の子のシンデレラストーリーをサスペンス風のコミカルな活劇仕立てで手際良くまとめた作品と簡単に要約できてしまうのだけれど、そこで描かれる個々の場面や情景、登場人物たちの仕草の数々には、マンガという作品ジャンルでなければ表現できないジャンル固有の質といったものが示されている。そのようなマンガに固有の視覚的表現の質は無論(今ここで書かれているような)言葉では完璧に伝えることは不可能なので、機会があれば是非実際に実物を手に取って自分の目でじかに確認してもらうよりほかに手はないのだけれど、たとえば、33頁目の一連の場面(メイドをくびになり、寝泊りできる場所を求めて閉店後のデパートに忍び込んだラッキーが、寝具売場でおあつらえ向きのベッドを見つけてそこにもぐりこんだ場面)、ラッキーがベッドの脇のボタンを押すと頭の上にぶらさがる釣り鐘の形をした3つの明かりが順番に灯って最後に足元にあたる目の前のキューピットの照明が「ぽわっ」と点灯する、という何気ないシークエンスの描写で、高野文子以外のマンガ家ならひょっとしたら4コマ(おそらくは5コマ)使わなければ描けないようなこの状況描写を、しかし作家の手際はこれを2コマ(ないし、3コマ)で処理してみせる。まず並みの作家ならおそらくそれを描こうとすら思いつかないようなこの繊細なシーンで、あえて4つの明かりを順番に点灯させるならば、通常考えられる(もっとも凡庸な)方途は、4つのコマを使って一つ一つの照明を律儀に順番どおり灯していくという、退屈この上ない手順を踏むことになるだろう(その場合、釣り鐘のランプは3つとも同じ型をしているので、基本的に4コマのうち3コマは同じ絵柄になる。すると1つの照明が明滅を繰り返しているだけの場面に見られるおそれが生じるため、マンガ家はランプが灯る前か後に、4つのランプが存在していることを読み手に知ってもらうベッド全景の1コマをも導入しておく必要がある。全部で5つのコマが必要とはそういう意味でだ)。
 確認したように、並みのマンガ家にとっては、こんなシーンを描くことにはリスクと手間以外には何も手に入るものはない。この窮屈な足枷にしか思われないような場面の描写において、高野文子は、1コマの中で3つのランプを高さの配置にしたがって描きわけることによって処理する。いちばん上のランプは枠線の外に位置が想定されていて絵としては現われず、僅かにスクリーントーンを削った原稿の下地の白さのみが明かりの所在を読み手に伝えている。すぐ隣の二番目のランプは、その傘の下部だけがようやく顔を覗かせている。最後のランプにいたって、全体が姿を現わし、背景の闇を表現する黒のベタ塗りの中に白々と柔らかい丸みを帯びた光を放つ。「ぽっ」という擬音がランプの3段の高さの配置にしたがって上から順に書きこまれているけれど、日本語の書き言葉の自然的な形態である縦書きという特性が、この場面の読み手に対して視線を誘導する順序を的確に(それが読み手に意識される以前に)伝えている。コマを複数に割ってしまえば枠線と枠線とのあいだに時間的なラグがあることを表現することは簡単だろうけれど、それはシーンじたいをおそろしく野暮ったいものにする。マンガという静止した絵の連なりの中で時間を表現するのに、高野文子は読み手の視線の誘導によって(絵を認識するための現実的な読み手の時間そのものを利用することによって)、静止した空間による時間体験といったものを実現している。最初に言ったマンガというジャンルに固有の質とは、このような認識の感触のことだ。
 あるいはまた、192頁から193頁にかけての場面。この2頁(というか、実際はそのうちの2コマ)もまた、マンガ的な可能性に満ち溢れた描写が見られる。
高野文子という人がどういう人なのかは実はまったく知らないのだけれど、この『ラッキー嬢ちゃん』というマンガを読めば、彼女がとても映画に影響を受けているということは物語の構成やフレームに対する意識の在り方なんかから如実に感じ取ることができる(高野文子のこの作品は、個人的に好きで子供の頃から見ている少年ジャンプ系のアクションマンガなんかとはちょっと比べものにならないくらいアクションに溢れている。コマの内部で人物が動いているマンガは腐るほどあっても、高野文子のマンガのようにコマ(フレーム)じたいが頻繁に動き続けて目が離せないという作品は希有だ)。
 ただし、映画に影響を受けていればいいマンガを描けるというのはおそらくまったくの間違いで、映画から影響を受けて「いいマンガ」を描くには、やはり再三触れている両者のジャンルに内在する表現の可能性の質をいったんどこかで切断し明確に弁別しておかなければならないはずだろう。
 『ラッキー嬢ちゃん』という作品のサスペンス的な側面は、「帽子」(に隠された一国の興廃を左右する重大な機密文書)の奪い合いとして担われているのだけれど、物語の終盤間近、その「帽子」を手に入れて一安心したラッキーがエスカレーターを昇っていき、その頭上に「帽子」争奪戦の黒幕のストッキング会社社長の姿を確認し背後からも社長の手下の女スパイに銃口で狙いをつけられ絶体絶命という場面。192頁は1頁まるまる使った1コマで、昇ってくるラッキーを社長の視点に近い上部の位置から正面の全身ショットで描いている。前の頁の社長のセリフ(『お手持ちの(帽子)が頂きたいだけなんですから』)によって読み手の視線はこの192頁のラッキーの右手に注がれるのだけれど、彼女のその手は手摺りにかけられていて帽子を見ることはできない。左につづく次の頁の3分の2を埋めるコマもほぼ同じ角度、同じ位置からの俯瞰ショットで、ただしラッキーは逃げ場を探そうと顔を背面に向けて背後を振り返り右半身を大きくそらせており、その右腕全体はやはり体の影になって確認することはできない。黒幕の社長がこの時発見したと思っていた「帽子」とは、実はラッキーのその時被っていた何の秘密も変哲もないただの帽子で、重要な方の「帽子」はラッキーのズボンのポケットの中に隠されていたことがこの後に続く場面で明らかになるのだけれど、この、「帽子」の在りかを軸に読み手の意識を宙に吊るサスペンスの場面は、それじたいとしてはごくごくありふれたシーンではある。にも拘らず、このたったの2コマによって切り取られた一瞬の場面は、2コマのみで状況を描くことが可能なマンガだからこそはじめて描きうるサスペンスシーンであって、一連の人物の動き(フレームに正対した姿勢から半身を捻って背後を振り向くまでのラッキーの動作)を映画やアニメーションといった時間芸術的なジャンルがそのままなぞろうとすれば、(ラッキーが実際は「帽子」を手にしていないという事実を観客の目から隠すためには)カット割りを変えるとか速度を操作するとかして手を加えなければけっして再現できないシーンのはずだ(つまりは、映画では充全には「再現」できないマンガ固有のシーンだ)。
 そこに描かれるべきもの(右手に握られているであろう「帽子」)が描かれていない、とはどの作品媒体を問わずサスペンスというものの定義の仕方の一つではあろうけれど、高野文子の描いたこのシーンの2コマは、映画では不可避かもしれない編集や撮影レベルでの嘘やトリックといったものなしに(目眩ましや「不正」が行なわれたという印象なしに)、堂々と、晴れやかとも言える手並みの鮮やかさでもって「嘘」を披露してみせてくれている。マンガ固有の視覚的な感触とは、たとえばまた、確かにこのようなものでもあるのだった。


ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事 (Mag comics)

ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事 (Mag comics)