ポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(岩波文庫)

 ……ヴァレリーは初めてだったんだけど、なんだか凄く難しい本を読んでしまった。明らかに選択ミスだったと、読み終えた今、猛烈に感じ入っている(ただし、まったく面白くなかったかと省みてみれば、そんなわけでもなくて、かといって「面白い!」と感嘆符つきで断言できるわけのものでもないことはこれ確かなはなしで、そう、自分の読書傾向みたいなものをつらつら振り返ってみるにつけいつでも心当たり有り有りな、これはあれだ、「面白い気がする」という感想に分類項目されるべき書物の一冊がまたぞろあらたにわが本棚に収められることになった、と伏し目がちに白状しなければならない類の読書体験なのであった。……小林秀雄新潮文庫の数冊*1然り、松浦寿輝の『謎・死・閾』*2然り)。
 難解すぎて論旨についていけなかったので、引用と一言コメントを付して感想に代える。メモ帳みたいなもの。


一個の人間のあとに残るものは、その名と、その名を讃嘆または嫌悪、或は無関心の標としてその遺業へわれわれの馳せる思いである。今、その人間が考えたと考えるのがわれわれであってみれば、その人間の遺業の間からわれわれの見つけ出す考えもまたこちらからしてその人間へ寄せている考えかもしれない。それは自分の甲羅に似せて作りかえる考えということにもなりそうである。(9頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説

 開巻の文章。1894年、23歳の頃に発表された文章らしいけれど、その25年後にはこんなことも書いている。

私は自分のありとあらゆる願望をこの人の持っているものとしてこの人に押しつけた。あのころの私に憑きまとっていた幾つもの難問を、あたかもこの人がこれに出会って、これを克服していったかのように、この人に託した。自分の痞(つか)えを私がこの人の中に想定したその大自在力に読み替えてみせた。私はあえてこの人の名のもとに自分を眺め、私という人間を種に使った。(131頁)
「追記と余談」

 甲羅式批評宣言。

世の大方の人は眼をもって見るよりも知恵分別で物を見る場合が多い。色ある空間のかわりに、概念の穿鑿をする。
自分の網膜によるよりも言葉で知覚し、対象に近づくことも十分にせず、物を見る楽しみ苦しみもぼんやりとしか分からないところから、<見どころ>なるものを発明したのはこの人たちである。(28頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説

 こういう認識は正しいと思うし、

楽しみはそれが動くようになるまで、そうして、その変貌する部材がみせるありとあらゆる組合せが浮かびくるまで、こちらが位置を変えてみることである。円柱は旋回し、奥行きは変じ、回廊舞台は辷(すべ)りだし、数しれぬ形像がその建物から数しれぬ和音をなして抜け出してくるのである。(64頁)
(同上)

 このくだりなんかは、好感がもてる。いいな。甲羅式も侮れない。

レオナルドには啓示などはない。右脇に口をあいている深遠奈落などはないのである。深遠でもあれば、この人は橋梁のことでも考えるだろう。断崖でもあれば、機械仕掛けの大鳥でも飛ばす役にでも立てよう……(100頁)
「追記と余談」

 パスカルの「左脇の深淵」を批判してダ・ヴィンチを賞賛する痛快な一文。いい。

意識というものは、平たくいえば、劇場の暗がりの中に席を占めているあの目に見えぬ観客衆を思わせる。真向うの舞台面からは目を離すわけにはいかず、自分のことは見てはいられないのではあるけれど、さりとてそこに、自分も、ただ一所を見つめたまま、息はずませている暗がりの中に居ると感じている存在。(120頁)
(同上)

 出来の良い比喩だとは思う。でも、本当か?って思う。思考が比喩にぐいぐい引っ張られてほとんど感動的なまでの情景をここに描かせているけれど、突っ走りすぎているんじゃないかって感じる。大衆的な社会状況だったり、そういうような場における個人の自意識の在り方の像を捉えてまったく正しいのかもしんないけど、あんまり信じちゃいけないような気がする。なんというか、格好良すぎる。
 こんなところ。
 

 ……ヴァレリーは「面白い気がする」んで、『ムッシュー・テスト』とかも読んでみようかなあと思う。


レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 (岩波文庫 赤 560-2)


 
 


 




 
 
 
 
 
 
 
 

*1:『作家の顔』と『Xへの手紙・私小説論』。ろくに読んでいない。

*2:冒頭の一章は『ヴァレリー、この「近代」の怪物』と題してこの近代詩人の考察に割かれている。割かれていた。確認のため百年ぶりに本を開いてみたら。