J・G・バラード『溺れた巨人』(創元SF文庫)

 バラードの小説を読むのはこれで2作目(ちょっと前に『夢幻会社』を読んだ)。この短篇集に収められている9つのどの作品も、規模の大小、事態の進捗程度の差はあっても、多かれ少なかれ、もはや破滅してしまった世界といったものが舞台になっている。身も蓋もなく<すでに破滅してしまっている>その世界においては、主人公(および登場人物たち)がそれに働きかけ、まがりなりにでも状況や事態を是正したりより善い方向へと改変したりすることの可能性などは、希望とともに、端っから存在しないことになっている。だからバラードの描いたこの世界では、生き残りを懸けた競争やら試練やらの中で誰かが人間的に成長したり、新たな革新的認識みたいなものに開眼したり、世界が再び見違えるように甦生したり……等々、劇的なドラマは、あらかじめ一顧だにされていない。この世界では、何であろうと、誰かの「出来ること」はとても少ない。熱で溶けた砂がガラスの水たまりをつくる砂漠の暑熱の中で書き割り製の迷路をうろつき回ったり、或る日気づいたら浜辺に打ち寄せられていた「溺れた巨人」の体躯の上を町中総出でアスレチックジムか物見遊山みたいにして駆け回ったり、あるいは、空から迫りくる巨大な怪鳥の群れをシューティングゲームのプレイヤーかなんかみたいに無我夢中で機銃で掃射したり、または、発熱の治まる夕闇とともにどこからともなく現れる数千匹の蛇のかたまりを車椅子にその身を縛られたまま待ち受け、ただ固唾を飲んで見守り、視力を失った盲目の闇の中で幻覚じみた内的な光景に食い入ったり――、つまり、「出来ること」はとても少ない。というか、やらねばならない義務や任務、使命みたいなものが、ここには無い。
 いくつかの作品には主人公である男たちの視線を誘引し、魅了する、謎めいた亡霊のような女たちが現れる。男たちとあらかじめペアである女(妻)は、男にとってはしばしば目障りですらある障碍みたいなものとして、とても邪慳に扱われている(「爬虫類園」の主人公の妻ミルドレッド、「たそがれのデルタ」のルイーズ、「薄明の真昼のジョコンダ」の献身的な妻ジュディス)。
 バラードのこの短篇集に姿を現す謎めいた美女の形象たちは、しかし同時に、男たちに不安や恐慌をもたらし、時にその命すら奪いかねない、恐ろしい魔女や怪物に類比されるのが相応しいような存在でもある。「薄明の真昼のジョコンダ」という作品がもっとも見やすく明示的に描いているように、その魔女たちの系譜のひな形は、端的に「母」的なものでもある。精神分析の理論かなんかにある程度通じている人ならば、この、息子にとって両価的な母親の存在の二面性みたいな点をちゃんと解釈出来るんだろうけれど、残念ながら僕にはそんな能力も力量も無いので事実の確認以上のことは何も言えない。バラードの持つ性愛のオブセッションといったものが彼の現実の生活史の中で実際の母を対象に醸成されたものなのか、それともたんに、それは母的なものに対する執着にとてもよく似ているという点のみから作品の主題の格好の好餌にされたものなのか、それも僕には判断が出来ない。ひとつ言えることがあるとすれば、それは、無我夢中になって追っかけまわした女から最後には命からがら逃げ出さなければならない破目に陥りもするこの男たちの不幸な遁走のお話のヴァリエーションが、男たちや女たちがその運命に対してはなんらの使命も責務も負わない(負いようのない)バラードの世界の<すでに破滅してしまっている>有り様全般へと向かって、いつまでたっても終わりのやって来ないすっかり間延びしきってしまった真夏の黄昏どきの子どもたちの鬼ごっこのような、ある種の魅惑的な退屈と倦怠の時間をもたらしているのではないか、ってことだと思う。

溺れた巨人 (創元SF文庫)

溺れた巨人 (創元SF文庫)