J.G.バラード『終着の浜辺』創元SF文庫


終着の浜辺 (創元SF文庫)

終着の浜辺 (創元SF文庫)


『溺れた巨人』とはかなり感触が違っていてちょっと驚いた。リーダブルで、やけに気が利いていて、ユング仕込みの物分りの良い図式がかなり露骨な(つまり、ちょっとどうなの?ってくらいに安易な)、SF作家の余技めいた単に「面白い」だけのアイデア小説、警句集に仕上がってしまっているんじゃないかって気がしないでもない。どっちの短編集もほぼ同時期(60年代前半)に書かれているわけだけど、バラード固有の作品のテーマ、壮大な時間錯誤だとか性愛に対するオブセッションなんかを別にすれば、書き方じたいが、同じ作家の作品なんだろうかってくらいにかけ離れているような気がする。ただ例外的に、「甦る海」って作品と表題作の「終着の浜辺」だけは、(いい意味でも悪い意味でも)作家の厄介な性懲りの無さみたいな感触が濃厚で、作品を読んでいるという抵抗感を感じた。
太古的な海の無意識の記憶が謎の女の白い影とともに主人公の周囲の風景を侵食しながら徐々に浮上してくる、というこれみよがしに外傷回帰的な結構をもつ「甦る海」の一篇は、オチ(下げ)で、まさに立て坑に落っこちてその白骨化した遺体が古代の地層から発見されることになる男の迷走の顛末をご丁寧に描いていて、この取って着けたようなオチがいかにも駄目な感じなんだけど、それでも、その俗流精神分析的な図式の馬鹿らしさをこの際横に置いといて、(この時期の)バラードに取り憑く止むに止まれぬ内的光景の一端を垣間見させもして、ともかくは読める出来にはなっていると思う。
「終着の浜辺」は、核時代の作家の想像力のあり方、みたいな、同時代の大江健三郎だとか安部公房の作品と付き合わせて読むと面白いかもしんない(ぼくは面倒だからそんなことするつもりないけど)。核を落とした側(そしてこの先も落としうる側)と落とされた側とが、相補的で類似の神経症を患っている退屈で誠実な光景がそこにはある。ような気がする。
ここに出てくる廃棄された南洋の水爆実験島の、巨大コンクリート群がつくるとても魅力的な迷宮の光景なんかは、『方舟さくら丸』のあの神経症的廃墟を思い出させもして、ぼくは理屈抜きでとても好きだ(あと、椅子にくくられる日本人の遺骸というような変な細部があって、中期大江の父親像とダブって見えたりする。まったく関係は無い筈だけど)。
「終着の浜辺」を読んであらためて思ったけれど、バラードの小説の最良の部分とは、なんだかんだ言って、文明やら時代への警鐘だとかいう立派な命題なんかとはあまり関係なくて、単純に、生成しつつある世界の破滅の観光ガイドみたいな、ある意味とても娯楽産業的なところにあるんじゃないかと、どうしても思えてしまう。その世界はあまりにも魅惑的だ*1

「歴史の終わり」を超えて (中公文庫)

「歴史の終わり」を超えて (中公文庫)

*1:……というような政治を美学化するがごとき発言をウッカリすると浅田さんとバラード本人に軽蔑されますよ、というようなことが『「歴史の終わり」を超えて』という本に書かれていました。