J.G.バラード『沈んだ世界』(創元SF文庫)
- 作者: J.G.バラード,峰岸久
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1968/02/12
- メディア: 文庫
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中盤以降の物語の展開は、前触れなく突如「沼」へと侵入する海賊のような私設サルベージの一団と彼らを率いる「青白い笑顔の男」ストラングマンとの、この世界への態度決定を巡る実存的な拮抗関係を軸にして弁証法的に進んでいくことになる。’62年の作家2作目の長編で姿を現したこのストラングマンという悪魔的でヌエ的な人物は、今まで読んできたバラードの作品ではほかに見当たらない造形を施された男であるはずだ。おそらくは、この人物こそが、場所(「沼」)へと変成した魔女的形象の現存在的片割れ、人物的転生の結果として現れているのだろう。「謹直な横奪者」とでもいうべき矛盾した存在であるこの先天性色素異常の男は、まず何より、破滅していくその世界への反逆者の相貌を持つ。物語終盤で「沼」の水を排水して都市を干上がらせてみせるという、バラード作品ではやはりなかなか目にすることの出来ない「労働」の主題を体現したこの男(不動産デベロッパー?!)は、有益に、功利的に「働く」ということが、作家の遊覧的宇宙ではそれだけで害悪でありうるという価値観を反語的に示唆しているように思われる。60年間水に浸かった町(ロンドンの中心街)が、排水の結果、泥土に塗れた剥き出しの裸の姿を一瞬にして晒したとき、ケランズは羞恥と嫌悪と恐慌の感情に耐えることが出来ない。その直後に続く一連のくだり(「10不意打ちパーティー」、「11骸骨先生の唄」、「12頭蓋骨の祭り」)は、擬制の司祭としてのストラングマンの司法の言葉、供犠の場面の単なる再現が支配的で、残念ながら作中もっとも退屈を覚える箇所であるように感じる。海神に擬されて生贄にされかかるケランズが西部劇の騎兵隊よろしく登場したリッグス大佐麾下国連調査隊の部隊に間一髪救出されるとき、読み手はそこに、通俗冒険映画(小説)の自堕落な再現か、あるいは(供犠という)物語の紋切り型を適度にかわしてみせる今一方の紋切り型の隘路を択一的に見るほか術がない。
一件を機に共同体的な環からの最終的な離脱を図ったケランズが、もはや人の棲みうる場所ではとうになくなった「太陽の楽園」の方へと向かい、当て所のない独りの道行きを開始したそのとき、物語は幕を閉じることになる。この世界で、以降それを認める者など未来永劫皆無であろうメッセージを壁に刻み込むことになるこの物語悼尾の場面は、あまりにも感傷的で美しくあり、あまりにも脆くある。
やがて彼はまた添え木を足に結びつけ、空になった四五口径の台尻で窓の下の壁に、永久に誰も読む気づかいのないメッセージを刻みつけた。
二十七日目。ここに憩い、南に移動す。すべて順調。
ケランズこうして彼は沼を後にし、再びジャングルの中にはいって行った。二、三日のうちにすっかり道に迷い、激しくなる雨と暑さを衝いて沼の群れを南にたどり、ワニや巨大なコウモリの襲撃を受けながら、この第二のアダムは、再生した”太陽の忘れられた楽園”を捜し求めて前進して行った。
……かくして、幾人かの失踪者と傷痍兵、亡霊たち、故郷喪失者らによる、死へと先細るほかない炎熱と多湿帯のもとでの不可能かつ奇妙な紐帯の行軍が静かに幕を開けることになるだろう。