J.G.バラード『沈んだ世界』(創元SF文庫)

沈んだ世界 (創元SF文庫)

沈んだ世界 (創元SF文庫)

 バラードはこの小説で珍しく、登場人物たちをあからさまに弁証法的(ないし二項対立的)な葛藤の舞台に据えて物語を綴っていく。お約束のように出来したバラード読者には既にお馴染みのあの破滅の世界にあって、主人公ケランズはじめ同僚の生物学者ボドキン博士や既に遺失してしまった世界のセレブといった風情の女性ビアトリス、物語序盤で錯乱的な強迫に駆られて「南」へ、太陽の方角へと脱走する軍属ハードマン中尉らは、この、灼熱のジャングルと広大な沼沢地帯とにすっかり覆われた爬虫類たちの楽園、水没していった20世紀の都市群を水面下に望む、いわば風景化された無意識状世界とでもいった現実に属する。そこには、内面化された外界の(あるいは同じことかもしれないけれど、外在化された心理の古い地層の)、相互浸潤的な作劇的嵌入がある。そこでどのような事態が起ころうとも、終局的には、世界は彼らの側にある(彼らもまた、世界の側に常にある)。破滅し、荒廃しつつありながら、バラードの描く世界が主人公たちにとって常にある種の親しさを投げかけることを止めないことは、作家のこの妄誕とも見分け難い信念によるだろう。また、バラードの創出する破滅の風景の、テーマ・パークのガイドブックのような、仮想の観光旅行記のような遊覧的性格もこの親しさと深く繋がっているだろう。「新しい心理のほうへ」などというような、あえて「誤解」する他に救いようの無い号令を自分の読者に容赦なく投げかけてしまうバラードという作家の「無意識的な」底意地の悪さに接して、なけなしの敬意を表しここに「誤読」をすれば、それは無論、「新しい心理」と称されるべき新奇さ、斬新さの観念などとは金輪際無縁の、おそらくフロイトのいう「不気味なもの」の図式に過不足なく収まるしかない態のしろものだろう。60年代(前期)の長・短篇諸作を通じてこの「不気味なもの」の役割を徴候的に担わされているセイレーン的魔女たちの形象は、この『沈んだ世界』では存在しない。主人公ケランズを魅了する作中文字通り紅一点の女性人物であるビアトリス・ダールは、確認したように、あらかじめ主人公と同等の身分にあって世界(の破滅)に応接する傍系的配役に収まっており、魔女的な重力圏にはまったく立っていない。この魔女の不在という事態は、バラードの作品環境にまがりなりにも馴染みつつある者にとって、かなり異例な状況に思われる。魔女(おそらく、ベタに「母的」なもの)の避けがたい強烈な魅力と、それへの接近が不可避的に結果する悪夢的な恐怖とが一篇(ことに短篇)の構成的な骨子となるバラード作品の通例を裏切って、しかしここでは、破滅する世界の場所(物語の舞台となる、都市を冠水する「沼」)がトポロジカルな変成を被って魔女的な不気味さの気配を色濃く漂わせることになる。物語前半の主人公の(不)行動と瞑想的観照は、南から次第に迫り来る嵐と熱波による「沼」の生活圏からの撤退という選択への、静かで頑なな拒絶的態度に動機づけられている。それは、この破滅する世界固有の潜在的な流行り病のような、「黒い太陽」の幻視と太古的な拍動の響きの幻覚体験とによって作家が象徴的に語る、人類未生以前の形質遺伝的オデッセイとでも称すべき荒唐無稽な妄想-愛の確固とした像を形作っている。
 中盤以降の物語の展開は、前触れなく突如「沼」へと侵入する海賊のような私設サルベージの一団と彼らを率いる「青白い笑顔の男」ストラングマンとの、この世界への態度決定を巡る実存的な拮抗関係を軸にして弁証法的に進んでいくことになる。’62年の作家2作目の長編で姿を現したこのストラングマンという悪魔的でヌエ的な人物は、今まで読んできたバラードの作品ではほかに見当たらない造形を施された男であるはずだ。おそらくは、この人物こそが、場所(「沼」)へと変成した魔女的形象の現存在的片割れ、人物的転生の結果として現れているのだろう。「謹直な横奪者」とでもいうべき矛盾した存在であるこの先天性色素異常の男は、まず何より、破滅していくその世界への反逆者の相貌を持つ。物語終盤で「沼」の水を排水して都市を干上がらせてみせるという、バラード作品ではやはりなかなか目にすることの出来ない「労働」の主題を体現したこの男(不動産デベロッパー?!)は、有益に、功利的に「働く」ということが、作家の遊覧的宇宙ではそれだけで害悪でありうるという価値観を反語的に示唆しているように思われる。60年間水に浸かった町(ロンドンの中心街)が、排水の結果、泥土に塗れた剥き出しの裸の姿を一瞬にして晒したとき、ケランズは羞恥と嫌悪と恐慌の感情に耐えることが出来ない。その直後に続く一連のくだり(「10不意打ちパーティー」、「11骸骨先生の唄」、「12頭蓋骨の祭り」)は、擬制の司祭としてのストラングマンの司法の言葉、供犠の場面の単なる再現が支配的で、残念ながら作中もっとも退屈を覚える箇所であるように感じる。海神に擬されて生贄にされかかるケランズが西部劇の騎兵隊よろしく登場したリッグス大佐麾下国連調査隊の部隊に間一髪救出されるとき、読み手はそこに、通俗冒険映画(小説)の自堕落な再現か、あるいは(供犠という)物語の紋切り型を適度にかわしてみせる今一方の紋切り型の隘路を択一的に見るほか術がない。
 一件を機に共同体的な環からの最終的な離脱を図ったケランズが、もはや人の棲みうる場所ではとうになくなった「太陽の楽園」の方へと向かい、当て所のない独りの道行きを開始したそのとき、物語は幕を閉じることになる。この世界で、以降それを認める者など未来永劫皆無であろうメッセージを壁に刻み込むことになるこの物語悼尾の場面は、あまりにも感傷的で美しくあり、あまりにも脆くある。

やがて彼はまた添え木を足に結びつけ、空になった四五口径の台尻で窓の下の壁に、永久に誰も読む気づかいのないメッセージを刻みつけた。

二十七日目。ここに憩い、南に移動す。すべて順調。
                       ケランズ

こうして彼は沼を後にし、再びジャングルの中にはいって行った。二、三日のうちにすっかり道に迷い、激しくなる雨と暑さを衝いて沼の群れを南にたどり、ワニや巨大なコウモリの襲撃を受けながら、この第二のアダムは、再生した”太陽の忘れられた楽園”を捜し求めて前進して行った。

……かくして、幾人かの失踪者と傷痍兵、亡霊たち、故郷喪失者らによる、死へと先細るほかない炎熱と多湿帯のもとでの不可能かつ奇妙な紐帯の行軍が静かに幕を開けることになるだろう。