高野文子「奥村さんのお茄子」(高野文子『棒がいっぽん』所収)

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

 「かわいいコックさん」の絵描き唄は、高野文子の「奥村さんのお茄子」という作品にとって、いわばひとつの定式のようなものとして作中に埋め込まれている。非人称の声によって作品の中で二度(最初は断片化されたフレーズの断続によって、二度目はひと連なりの歌詞の全体像によって)繰り返される「かわいいコックさん」の絵描き唄は、あらゆる絵描き唄というものの歌詞が元来そうであるように、ここでも、突拍子のない、本来繋がる筈のない語彙の群れがあれよあれよという間に次から次へと接着しあっていき遂に思いもよらなかった一個の形を浮かび上がらせるという、子どもたちの魔法のようなものとしてあるだろう。この絵描き唄のもつ目眩をもたらすような(同時に、しかし、とても単純な)視覚の驚きとそのからくりの実演こそが、高野文子の「奥村さんのお茄子」という作品の眼目であるように思う。
 25年前に昼食で食べた(かもしれない)茄子の漬物を思い出すという「奥村さん」の強いられた無謀な務めは、完璧な忘却(想起の失敗)によって報いられるほかないだろう。「田辺のつる」で真っ白な部屋の扉が果たした絵の空白(絵の不在)という主題は、ここでは、ビデオ画像に収められた「奥村さん」の口元を覆い隠す弁当箱の四角い空白として再導入されている。大袈裟に言えば、そのとき、『そこに茄子があったか、それともなかったのか?』という物語の(それじたいとしてはとても他愛のない、瑣末な)糾問は、「奥村さん」を形而上学的な再現性・演劇性の舞台で全面的に包囲しているとも見ることが出来るかもしれない。*1そこで「奥村さんのお茄子」という作品がその結末部分で4ページにわたり展開してみせる一連のシークエンスは、それを見る者に鳥肌を立たせるほどに美しいし、あるいはたぶん、美しいというような弱々しい言葉よりも、いっそ豪勢と言ってもいいくらいの、ちょっと異様なくらいに贅沢な光景を現出させている。空白の背後(弁当箱の影になった場所、記憶の死角)を探りあてる不可能性の悲喜劇であったかもしれない地点から、突拍子のない、本来繋がる筈のない、陽の光のもとにある無数の人物、虫やカエルたちまでもが送り送り返す、視線と思惑の繰り広げる快活な活劇のような3秒間の、接触と離脱を交互に繰り返す運動する世界の網の目のような様相が、瞬時にして息吹を吹き返す。人はそこに、なにか笑ってしまうくらいに出鱈目で厳密な、稠密でありながらも飛躍しきった瞬間というものの気配を触知するのだろう。

ぼーがいっぽんあったとさ
はっぱかな
はっぱじゃないよ
かえるだよ
かえるじゃないよ
あひるだよ
ろくがつむいかに
あめざーざー
さんかくじょうぎにひびいって
おまめをみっつくださいな
あんぱんふたつくださいな
こっぺぱんふたつくださいな
あっというまに
あっというまに
かわいいこっくさん

……高野文子は、高野文子を救出する。

*1:その「茄子漬け」は毒茄子(!)だったという事実を思い出してもいいかもしれない。高野文子的な人物はこの「茄子漬け」一口で死ぬことだってありうる。