高野文子「田辺のつる」(高野文子『絶対安全剃刀』所収)

 たとえば、こうの史代の「夕凪の街」という作品の最後の数ページは、病床に臥せった主人公(皆実)の視点から見られた光景やお見舞いに訪れる人たちの顔が徐々に(しかし、急速に)彼女の視界から奪われていき、遂にもはや何も見ることの出来なくなってしまったその視覚(というより身体それじたい)の崩壊の経験になぞらえられて、真っ白のコマの枠線の内側に心内語のモノローグだけが重ねられていく、という表現が選ばれている。選ばれている、というよりはむしろ、不可避的に選ばされている、追い込まれていると言った方が適当だろう。皆実の一人称の視点に委ねられた最後の数ページの「絵」の空白は、(仮にそれが直接に描かれることになったならば)目を背けたくなるようなもっとも無残な主人公の姿から、この漫画の読み手であるわたしたちの視線を匿い、保護してくれるものでもあるだろう(なによりも第一に、それはまずこの作品の作者の視線をこそ保護してくれる空白の遮蔽幕としてあっただろう。厭味でも皮肉でもなく、それは真底、重畳と呼ぶに値する空白だっただろうと思う。この漫画が作中何度か触れかける「無残」な光景に対するこうの史代の抱いた恐怖は、あとがきの言葉なんかを読むまでもなく、その光景に割かれた作家の絵の処理を見るだけで充分察することが出来る。やっぱりそれは、誰にとってもとてもきつい経験なのだ)。
 「夕凪の街」の最後の数ページが明示的には主人公の視点に据えられていながら、同時に、物語の外部にあるわたしたち読み手/作り手の視線にも立脚するものであった(つまり、物語の外部なんてメタな立ち位置などどこにもなかった)ことをなんとなくあらためて思い出したのは、高野文子の「田辺のつる」を読んでいて、この漫画にもやはり最後の方で、「絵」を描くことを放棄する(?)、というか「絵」を描かないことで受け手の視覚的な想像力の場に「絵」を描きこむ(受け手をある種の「作り手」として共謀関係に招き入れる)一種の空白のコマが現れているからだった。
子ども向けの塗り絵帖から抜け出してきたようなかわいらしい82才の「童女」が孫娘の部屋から閉め出され、扉の向こうでそこを開けてくれるよう哀訴するその場面は、一ページをまるまる使った大きなコマで、ちょうどページの中央に配置されたドアのつくる矩形の枠線と、天地を挟む格好で水平に引かれる畳の床と木張りの天井の縁の二本の直線、ページ右下のあたりに見える扉脇に据えられた三段の収納棚(カラーボックス?)とそこに収められた壜の類が数本描かれている。畳の耳の黒くて太目の線と天井の木目の描き込み、影を表現する薄いスクリーントーン、それから棚の上の小物のいくつかが画面に「絵」として描かれたすべてで、中央の扉の真っ白な背景の印象が全体としての構図の空白を強調している。画面には描かれない部屋の手前の空間には「童女」の独語を耳にする孫娘とその彼氏の二人の人物の存在が想定されており、「もうろく」してもはや誰にとも宛てのない妄想を語り始めている老女/童女は扉の遮蔽(空白)の向こうにいる。その空白の扉をぐるりとほぼ一周囲うような配置で吹きだしのセリフが書かれている。

きんぞーきんぞーいい子になりますね
お父さまが帰ってらっしゃいますよ
早くここあけて出てらっしゃい
あなた!
あなた!ここあけて下さい
何してらっしゃるんですか
あなたはやまったことしないで下さい私達どうしたらいいんですか
ここあけて下さい
お願いですあけて下さい
あけてください!
あけてください!

 声と記憶の混線がフラッシュバックみたいに童女に回帰して、見えない複数の場面、「田辺つる」というそもそも複数であった一人の人物(女の、母の、妻の姿)を空白の向こうに(正確には、おそらく空白の手前に)一瞬、出現させている。ここには、渡部直己がしきりに批判するような黙説法の優雅な欺瞞みたいなもの(あるいは、ジジェクの言うような意味での無のヴェール、仮面の下の無のようなもの)はいっさいない。「秘するが花」のごとき、隠されるべき、尊ばれるべき秘密の核心なんてものはない。扉の向こうの童女/老女のさまざまな姿は吹きだしのセリフによってあからさまに指示されている。それが一種の「絵」の不在/不在の「絵」(空白)によって描かれるのは、単純に、描かれるべき情景と人物のしぐさとが複数にわたるからだろう。ここでは単に、黙説法ではなく省筆の経済が見事に開示されている稀な実践例を味わうべきなんだろうと思う。
 そして、作家のこのような記憶や時間の混線した複数性を十全に描いてその実力の程を如実に示している作品として、たとえば、「奥村さんのお茄子」というような傑作は読まれるべきなのではないかと思う。