J.G.バラード『クラッシュ』(ペヨトル工房)

 '73年に発表されたこの小説がそれ以前のバラードの作品に対して切断しているものがあるとすれば、それはたぶん、隠喩というものへの作家の態度変更というところにあるかもしれない。以前読んだ『沈んだ世界』にしろ『結晶世界』にしろ、つまるところ有体に言ってしまえば、そこで破滅していく世界とその世界で生きる人物たちとは、作家に固有の性的なオブセッションを暗に指示する(セクシュアリティが隠密に、かつ十全に駆動されうる)象徴として隠喩的に按配されたものだったろう。あからさまな性描写を書くことによって『クラッシュ』が示してみせていることは、この奥床しいと言えば奥床しい、迂遠と言えば迂遠な「性的なものの隠喩」の次元から手を切ってみせた切断面の切り口であるように思う。しかしまた、あまりに過剰な倒錯だらけのセクシュアリティの世界(物語の内容レベルにおけるそれ)を描くことを可能にしたこの水準は、作家固有の、自身にとって真に切実な症候的な地平を、書き物の次元で棚に上げてしまったことによってはじめて現われることができたのかもしれない(たとえばそのような文脈から、解説の巽孝之の、この作品の主人公の名前が数ある著作の中で例外的に作家と同姓同名を与えられている、という指摘は、別途かえりみられてもいいかもしれない。つまりそれは逆アリバイ、本当はそこにいないのにそこにいると言い張るための子供みたいな一種の「存在証明」に過ぎないかもしれない危惧がある)。つけ加えれば、「性的なものの隠喩」から手を切ったバラードの小説作法は、かといってしかし、「隠喩」そのものと縁を切ったわけでは無論なくて、作品はここで、あらためて、「セクシュアリティとテクノロジーの新たな婚姻」というようなテーマへのメタファーに満ちた物語として差し出されることになっているだろう(この「セクシュアリティとテクノロジーの新たな婚姻」とかいう馬鹿でかいビジョンをもったおはなしは、ぼくには読んでいてもいまひとつピンとこないので、ボードリヤールなんかに詳しい人が真面目に分析するといいかもしれない。小説の使命とはあまり関係のない話になるかもしれないけど)。
 あるいはまた、この小説の「説話的構造」は、むかし蓮實重彦が分析した「双生児の冒険譚」というような図式にすっぽり収まってしまうような具合で進行しているかもしんない。実際、主役と目して差し支えのないヴォーンという「(衝突事故)死への欲動」に取り憑かれたこの倒錯者は、同時代に大江健三郎が描いていた一連の双子的人物の片割れとそっくりな機能を果たしている(ような気がする)。
 断言出来ないけど、ここには倒錯者たちによる奇怪で滑稽な、生殖に依らない不可能な共同体(連帯)の新たな連鎖運動の気配のようなものが捉えられようとしているのだろう。そうだとすれば、ここにも確かに、初期バラードの破滅する世界でひとり彷徨を開始したあの無数の人物たちの後ろ姿が、ひっそりと息づいていることになる。切断はバトンタッチとして現れる。