こうの史代『長い道』

長い道 (Action comics)

長い道 (Action comics)

 雑誌連載だったらしいこうの史代の『長い道』という作品は1話につき3、4ページから成るごく短いエピソードが50篇以上積み重ねられていって、その結果、総体として一篇の作品のまとまりを形作っている。とはいっても、ここで「総体」とか「まとまり」とかいう言葉に相応しい固い芯のような像が掘り出される感じではまったくなくて、あくまでそれは、一冊の漫画の単行本としてそれを手に取る人、そのページを一枚一枚めくっていき、そこに描かれている人物なり風景なりの絵を見取っていく人の感触の中で当面現われている限りでの手応えのようなものにすぎない。それは、そこから芯を取り出すことが難しい、とか、端的に不可能である、とかいうような、人の頭を悩ませてしまう問題(難問/難題)としてあるんじゃなくて、単に、そこから核心のごときものを取り出してしまったら、その時作品そのものの世界が流れ落ちていってしまうというような具合でわたしたちの中に手渡されているんだと思う。(有るか無いかも分からない?)物事の「難局」やら問題の「核心」やらを探り当ててしまうのが人の習い性なんだとすれば、この漫画(を虚心に享受すること)はつまり、人が思っているより案外ずっと「難しい」のかもしれない。
 こうの史代の漫画を読むのは『夕凪の街桜の国』を含めてまだこれが2冊目なんだけど、『長い道』が『夕凪の街』と明らかに異なる点があるとすれば、(作家に切実であることは疑いえない「被爆体験」というような)重たいテーマの有無にあるよりはむしろ、作品の中で堆積していく時間の質の差異に求められるんじゃないかと思う。おそらく、どっちの作品においても、こうの史代という漫画家が描こうとしている世界は存続する時間の積み重なりの中でしか生きられない(そのような時間の中で生きることをある時選んだ)人々の、小さな日々の営為、決断と機会主義とが容易には分離しがたく混然となった時間、そのようなある種きわめて不透明な「継続する世界」での生といったものにあるのだと思う。『夕凪の街桜の国』という作品が(原爆投下後60年という、人と家族にとってけっして短いとはいえない)時間の経過の中でたまたまそこに生を享けた一人の人間が遡及的にその生(家系)を自覚的に選び取ることを描いていたとすれば、『長い道』の主人公「道」もまた、まったく出鱈目な理由によって結婚生活が始まる/始めることにる。「出鱈目な理由」とは撞着語法というやつで、つまり単に、その結婚には「理由」というものがまったくない。にもかかわらず、道は、その継続する婚姻関係の時間の中で、事後的に、「荘介どの」との二人の生活をあらためて選びなおしているだろう。こうの史代の世界では、その世界や人との繋がりの時間はいつでも、当人の知らない間にすでに始まっており、関係を選びなおすこともその分だけ遅延している。そこでは、「継続する世界」のそのまさに継続性をこそ確認すること、そのことだけが真に重要であるかのようだ(そして、その継続性の確認、もっと言えば、「継続を生きること」あるいは「継続それじたいとして生きること」のステータスは、とても困難なことでもあるだろう。ひとまずこの記事の最初の方で述べたような意味での「困難さ」に限っても)。
 『夕凪の街』と『長い道』はこうして、時間の積み重なりの中で生きる類似した世界を分有されてありながら、しかしまた、その時間の「重み」のような水準で、明確に異なる作品として双方に別個の圧力がかかってもいるだろう。繰り返しになるけど、それは「被爆者(被爆二世)」という「重たい」問題とどこにでもあるかもしれないささやかな結婚生活という「軽い」物語との主題レベルでの違いとは(直接には)関係がないはずだ。

三頁でまとめるのは意外に難しくて、いつまでたっても慣れませんで、「いつかおカネ持ちになったら、広告の頁を買って四頁にしてやろう」と思ったりしていました。

 『長い道』のあとがきでこうの史代はこう記しているけれど、「三頁」や「四頁」というごくごく少ない単位での繰り返し(雑誌連載という反復・積み重ね)こそがはじめて説得的に開示しうる世界の継続性という次元が確かにある、その事実は、ほかならぬこうの史代のこの作品じたいが誰に問われずとも雄弁に語ってくれているように思う。「なんてことない」けどけっして「なにもない」わけじゃない、ささやかでありふれた日々の光景や情感、二人の関係が形作る交流の縞模様のような図柄、その繰り返し、存続する世界の存続、「偽物のおかしな恋」……
 戯れに、『長い道』のエピソードを逆から、あるいは真ん中から、あるいは不定の、任意のページをめくって開いたところから、逆向きへ、飛び飛びで、まったくのアットランダムで、読んでみる。しかし、読み通す必要もない。継続する世界の驚くべき単調さに溢れた終わりのなさがそこかしこでわたしたちの目を出迎えることになるだろう。
 「満開の桜並木にかかる歩道橋」の光景に向けられて積み重ねられていった『夕凪の街桜の国』に流れる時間との差異が、そこにはある。