ユクスキュルのダニ

 洗面所の化粧台の上の天井にクモが巣を張ってもう1週間くらいになる。ひょっとしたら十日くらいにもなるかもしれない。全身が赤っぽい茶色で、ちょうど手の親指ほどの大きさの、脚の長いそのクモは、天井と二面の壁が合わさる角の奥まった隅っこにいつの間にやら居ついてしまっていて、それに気づいて以降、毎日少なくとも朝晩二回は頭上を見上げて確認しているものの、ほとんどその場から動いている形跡がない。夏の盛りには小さな羽虫が飛んでいたりしたこともあるこの家の中も、しかし秋のとば口を越えた今の季節、クモ一匹が生きていける程度の餌が容易に捕まるとは思えない。微動だにしているようにも見えないので、ひょっとしたらとっくに死んでしまってるんじゃないか、と、時折ふーっと息を吹き掛けてみれば、くすぐったがるみたいに糸の上をちょこちょこともだえる。どっこい生きている。……ドッコイ?
 ユクスキュルの『生物から見た世界』で描かれていたマダニや動物たちの「環世界」の光景をふと思い出し、本棚からその文庫を抜き取り久しぶりに読み返してみる。
 ユクスキュルの報告するところを信ずるとするなら、ある種のダニは、獲物(哺乳類)の発する信号(酪酸)の刺激を待機したまま、18年間という月日を絶食して睡眠状態で生き長らえることが可能らしい。序章に据えられたこのダニのエピソードを絡めて、もろもろの生物固有の「知覚像」と「作用像」からなるシャボン玉のような環世界のカント的様相がそこでさまざま語られることになるのだけれど、ひとまず生物学に焦点が合わされていることが確かなその考察の射程は、しかしこの学問の門外漢が読んでみてもいろいろと考えさせてくれる興味深い議論の展開をはらんでいる。
 たとえば、ダニにとっての獲物(ダニと哺乳類のペア)を、わたしたちにとっての作品(受け手と作品のペア)として類比的に、並行的に考えることは出来ないだろうか? ユクスキュルの「環世界」というアイデアをここに(思い切り端折って)要約してみれば、それは、個々の生物はそれぞれ固有の知覚の世界、知覚のイメージ、そのトーンを主体として抱え持っており、保有するそれら刺激の束それぞれに対して同様に、作動する行為の世界、イメージ、作用トーンをも抱え持ち、そのようにして客観的な世界(いわば人間化された「環境」)という見方を真っ向から覆す、彼ら独自の「主体」的な世界の存続をそこに見出そうとする視点を確保しようとするだろう。ダニにはダニの、ヤドカリにはヤドカリの、コクマルカラスにはコクマルカラスの、彼ら自身にとってのみ意味を持つ固有の世界、知覚イメージ、探索と逃避のパターン、時間や空間(「家」や「なじみの道」、「故郷」)等々が、生得的に、あるいは後天的に埋め込まれている。時間や空間といったものが世界に存在する事物たちの器としてあらかじめ先行してあるのではなく、生物の持つこの「環世界」という経験こそがはじめて時間や空間を可能にする(そこにおいてのみ、時間や空間というステータスが意味を持つ)という転回的な世界観はカントから譲り受けたものであるだろう。ユクスキュルの考察にカント以後という状況を割り引いてなお、ある衝撃が仮にあったとするならば、それはおそらく、人間の特権的な優越的地位といった永らく生きていた巨大な虚構、幻想が、そこで明確かつ厳正に、動物や昆虫たち、あるいは無脊椎生物、アメーバのような原生生物と同程度にまで切り詰められた、という一種の剥奪宣告に求められるのかもしれない。
 ……なんだか話が脱線しはじめているみたいだ。つまり、何を言おうとしていたかというと、ダニに固有のその「環世界」はダニにとって必要な知覚像と作用像とから成立していて、たとえば人間にとって重要な視覚や聴覚といった感覚経験はダニの「環世界」においてはまったくのゼロ価値であるという事実をユクスキュルは教えてくれている。敷衍すればこれはつまり、ひとつの作品というものに接したとして、或る人にとっては意味のある事柄が別の人にとってはまったく意味がないことになることがあるという事実を、「環世界」という切り口で解釈しうる視点を可能にしてくれるだろう。ここでもまた、ユクスキュルは格好のモデルを提示してくれている(「十三章 同じ主体が異なる世界で客体となる場合」)。そこでさまざまな生物たちの「環世界」の一部として、同様さまざまなトーンを担う「カシワの木」というひとつの客体は、何億何兆もの「環世界」の中で、何億何兆もの混沌とした(脱中心化された)姿でもって怪物のようにして現れることになるだろう。作品というものも、ひとまずはこの「カシワの木」と同じであるはずだ。それは、たとえば、ある人にとってはカルスタ的考察の対象であるだろうし、またある人には精神分析的解釈の素材でありうるかもしれない。テマティスムが適用されるかもしれないし、脱構築的批評が枝を刈り込むかもしれない。社会学的見地から見られ、神話の構造分析が手を着け、作家主義が、印象批評がそれを読み取るかもしれない。「環世界」というメタ批評的な(「批評の批評」的な)教えは、それらすべての「作品への応接」が不可避的に偏った見方の結果であることをわたしたちに告げるだろう。
 つまり「環世界」というメタ批評的な作品へのアプローチは、作品への具体的な接触において、たぶん、まったく役に立たない。それは作品を取り巻く状況を鳥瞰的に眺めることを可能にしてはくれても、それ自身の「環世界」を形成することが出来ないしろものだ。わたしたちに必要なことは、やはり、作品を前にして、作品を待機しつつ、一匹のマダニになることなのだろう。18年間食わず、生きながらえて、酪酸の臭いを待ち受ける樹上のダニになる決心が必要なのだろう。念の為に確認しておきたいけど、いま軽率に口走った「18年」とかいう脅迫めいた比喩が「重い」か「軽い」かなどはダニじしんですら感じることは出来ないはずだ。「重い」かといえば「重くない」と答えるし、「軽い」かといえば「軽くない」と答えるほかない。「重くもないし軽くもない」ものは、端的に、重たさとも軽さの観念とも関係のない、まったく別の何かなのだ。それは「環世界の掟」とでも呼ぶよりほか名づけようのない経験として、ダニたちの生が潜り抜けるひとつの質であり続けるだろう。あなたのダニは誰の血を味わうのだろうか?
……支離滅裂な文章になりました。夜中だったんで勘弁してください。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)