三浦建太郎『ベルセルク』

ベルセルク (31) (Jets comics (267))

ベルセルク (31) (Jets comics (267))

(以下は、『ベルセルク』の物語の内容とはほとんど関係のないはなしです)。
 ひと月ぶりに本屋に入ったら『ベルセルク』の最新刊が出ていた。プロフィールには「漫画好き」なんて書いてしまってるんだけど、本当のことを言えば、定期的に読んでいる漫画の雑誌なんてひとつもない(たまにジャンプを買うぐらい)。連載中の漫画で単行本が出るのを楽しみにしている作品も、いま指折り数えてみたら、たったの5本しかなかった*1三浦建太郎の『ベルセルク』は、そんな数少ない、新刊が心待ちにされる作品のひとつなわけだけれど、ふだんヤングアニマルの連載の方にはまったく目を通していないんで、単行本が新しく出るたびに前の巻をざっとさらって、それまでのお話の流れを再確認してから、ようやく読み始めるというていたらくなのだった。
 これはどこと正確に指差すことは出来ないんだけど、三浦建太郎という人の絵は、気づいたらとても流暢になっていたっていう感じがする。ペン先を換えたのか筆圧の具合が見直されたのか(あるいはもっとぜんぜん別の原因によるのか)よく分からないけれど、描きこまれる線がより繊細になって、絵の密度や情報量がどんどん上がっていってるという印象がある。ただなんというか、主人公のガッツがどんなに派手な大立ち回りを演じてみせても、異形の化け物たちが地獄さながらの阿鼻叫喚の光景の中で狂乱の限りを尽くしていても、それらは枠(額縁)の中にぴったりと収まってしまっている感じが強くて、作家の表現力の巧みさがいよいよ引き立てられるばかり、といった印象がある。むろん、「表現力の巧みさ」とはひとりの漫画家にとって全面的に肯定され歓迎されこそすれ何ら非難されるべきいわれのないことは当然のはなしであって、実際、三浦建太郎の卓抜した想像力が造形する魑魅魍魎たちの生動感(えも言われぬ「いやぁ〜」な感じ)だとか、ガッツの演じる人間離れしたアクションの、しかしとても説得力のある動きなんかは、これはもう、ちょっと同時代に他に比べるべき作家がいないくらいにずば抜けた冴えと確固とした作画力に裏打ちされたものだろう*2(いや、漫画をぜんぜん読んでいない事実を告白した矢先に、「他に比べるべき作家がいない」とは身のほど知らずもいい発言だった。それくらい評価できるってニュアンスで読んでください)。
 (漫画の)絵のうまさとは何を以てして測られるのか素人のぼくにはよく分からないけれど(構図の確かさとか対象のデッサン力とか、だろうか?)、三浦建太郎の描く絵はおそらくどの基準から見られても及第点をはるかに上回る最高レベルに属する逸品であることは、誰が見ても確かなところだろう。であるからこそ(「にもかかわらず」ではなくて)、余計に、「額の中の絵」みたいな静止した印象が強まってくるのかもしれない*3。目の前で何かが動いている(動きだそうとしている)「らしい」ことはよく分かるのだけれど、それを目にするわたしたちにその動感が宿らない、動いている感覚が生じない――、この読み手の実感がさほど狂っていないものだとしたなら、アクション漫画の描き手にはたいへん厄介な問題となるだろう。(最近はその神話が解体されつつあるらしいけど)手塚治虫の『新宝島』以来の、日本の漫画に特徴的な運動感というような大きな問題系と繋がってくるトピックがそこにはあるかもしれない。ちょっと物々しい言い方をすれば、それは、(本来静止したものとしてあるほかない)絵と読み手がそこから喚起されるアクションの感覚とのあいだで取り交わされるひとつの「虚構」への、描き手/読み手双方に等しく要請される一種の「賭け」を巡る問題系を形作るだろう。「虚構」とはつまり、静止した紙の上の絵にすぎないものをわたしたちの知覚の体験の内部でまさに動いているものとして解発する、その構えにかかっており、当然のことながら、そのような「虚構」にどのようなかたちであれ肩入れしようとする者(わたしたち読み手)は、その都度、小さな「賭け」に打って出ていると見なすことが出来るのだと思う。

*1:ほかに、『バガボンド』と本秀康の『ワイルドマウンテン』、花輪和一の『刑務所の前』、『よつばと!』くらい。

*2:現役のジャンプ連載作家のある作品の中にもガッツみたいな大きな剣を振り回す人物が登場するけど、あれなんかはキャラ立ちのための意匠といった域を越えるものではないだろう。「とても重たいものを、重たいものとして、なおかつ、それを軽々と使いこなす」ガッツという偉丈夫の目を見張るような膂力、ずっしりと地に足を着いた重力の厚みのような説得力が、そこにはまったくないと思う。

*3:あるいはそれは、ちょっと一目では見取れないくらいに描きこまれた線の密度、情報量の過密さに由来するのかもしれない。視線は瞬間瞬間、そこに描かれた絵を可能な限り微分することを強いられるけれど、その都度そこに帰ってくる絵の全体像といったものがその往還運動によって姿を変える、みたいな視覚の驚きはほとんど発生しない。