ルクレティウス『物の本質について』

 ルクレティウスは『物の本質について』の第二巻で、人々の抱く(観念によって先取りされた)死に対する恐怖を批判している。要約すれば、それは、精神にとって死すべきことが本質である以上それを恐れるいわれなどはどこにもない、ということになるのだろう。ルクレティウスのその言葉はとてもシンプルだけど、問題の核心をついていると思う。
 ある観念なり感情が誤謬や仮象に基づく錯覚に過ぎない、といくら頭で理解していても、その仮象が任意に、恣意的に仮構されたものではないとすれば(仮象を掴む、のではなく、仮象こそが主体を掴むのだとしたなら)、その妄信なり誤謬なりを根底から拭い去ることは難しい(というか、出来ない)と思う。それは(たとえば死の観念は)、いくら合理的に啓蒙されようとも、つねに人の頭から離れることはない(しかし、それを忘れることは出来るだろう。また、忘れることでやり過ごすことしか出来ないとも言えるだろう。その意味で、「死を忘れるな」というような厳しい号令は、二重に不当なものかもしれない。つまり、片時も忘れることが出来ないものに対して「忘れるな」と呼び掛ける無意味さであり、忘れることでしかやり過ごすことが出来ないものに対して忘却さえも禁じる酷たらしさである)。
 死の観念というものが、人間にとって生得的で先験的で、生の経験の時間以前にあらかじめ精神にプリセットされているとしたら、はなしは確かにそういう風に行き詰まるほかないかもしれない。ただ、唯物論者のルクレティウスはそうは思っていないだろう。忘れるわけにはいかないが、人間の魂や精神の領域までもが無数の原子の衝突運動によって解明されようとするこの壮大で荒唐無稽な叙事詩は、(わたしたち同様)死を片時も忘れることが出来ないかもしれないルクレティウスの一人の友人(メンミウス)に向けられて綴られる、友宜の手紙としてもある。そこで諸原子の振る舞うことになる打撃の連鎖運動は、むろん、予測不可能で未来に対して同定できない、開かれた状態を維持しているだろう。ルクレティウスの綴る言葉たちもまたここで原子の運動として、メンミウス(わたしたち)の精神の原子を打撃しようと斜行を開始している*1。その時死は、恐れるべきものでもないし、かといってないがしろにされるものでもない、ひとつの人間的所与として、観念の上に再登場することが出来るかもしれない。それがルクレティウスの教えの核心のような気がする。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

*1:もっともルクレティウスの原子論では、視覚や聴覚といった知覚経験の説明はあっても、言語論や現代の認知科学に相当する分野への直接的言及はない。だからぼくがここで好き勝手に書いていることは、ルクレティウスその人の議論とは当面ほとんど関係の無い、ただの戯言に過ぎない。