京極夏彦『邪魅の雫』

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

デュパンからホームズ、ポアロ、或いは明智から合田、或いは京極堂(!)にいたる刑事、探偵たちの系譜、その性格に認められるもの、全てを演繹的に或いは還元的に透視する者の全知の傲慢さと、実存的主体として見た場合の空虚さ、空虚な神の空虚さ、生きられる世界から弾き出されてあることの見返りとして与えられた全知の能力の空虚さ。
丹生谷貴志離人症の光学」(丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』77頁)

(以下のエントリーは激しくネタバレを含みます。)

本名は偽名だった

 言わずもがなの前提を確認しておけば、探偵小説における探偵(ないし警察)の一般的な役割とは、ひとまず抽象的には、「名前」を与えること、「名前」と実質を一致させることにあると言うことが出来るだろう。探偵の務めは、犯行とそれを行った犯人(の名前)との不可分離的な結びつきを、未だその紐帯の見えていない読者の視線に対しつねに一歩先行する形で、謎解きの大団円の場に向けて浮上させようとする活動であるだろう。犯人(の名前)があらかじめ読者に提示されている倒叙的なケースでも無論、犯罪と犯人との結びつきの論理的な確定の手続きは維持されており、読み手はその叙述の場で、「名前」の付与が探偵によって正当に執り行われる様を事後的に確認することになる。京極夏彦の『邪魅の雫』においても事情は同様で、というより作品は、この「名前」と実質(犯行とその被害者、加害者双方)との(不)一致という探偵小説の原理(?)を巡る迷走劇の様相を呈してもいる。ここで「名前」の(不)一致とは、端的に「偽名」のトリックとして展開されることになるだろう。この「連鎖殺人事件」の最初の一撃を突いた犯人「神崎宏美」は、「真壁恵」、「宇都木実菜」、「原口美咲」、「神崎礼子」等々、複数の「偽名」を差配する黒幕として物語の空虚な中心に据えられている。彼女の立ち位置が「空虚な中心」であるとは、つまり、個々の犯行の実質を担うのはどの場合でも「神崎宏美」じしんでは決してなく彼女の送付した「偽名」に欺かれた人物たちであり、あるいは、小説の説話的な体裁において「神崎宏美」の名前がはじめて読者に開示されるのが全八百頁を超えるこの作品の前半であり、そこでたった一度書きつけられるのみで、以降複数の「偽名」の下に伏流のように姿を隠してしまう、その叙述の徹底した欠如をいう。ただし、この、人物の役割における「空虚」といったものを巡る視点は、後でもう一度(おそらくは訂正的に)触れなくてはならない筈だ。
 探偵(京極堂)の役割は、ばら撒かれるように入り乱れている複数の偽名と遺体の集まりから適切なペア、組み合わせを再発見し、隠されていた秩序と全体性を場に回復することにある。取り違えられ、誤認された偽名と人物たちのペアのもつれをひとつひとつ解していき、ついに犯人=「神崎宏美」の名前を「神崎宏美」という人物じしんに再び送り届けること――、それが探偵の(ひとまずの)務めであったとするなら、探偵はその仕事を十全に果たし終えたと言えるだろう。しかしここで、「神崎宏美」という真の姓名それじたいが、実は一個の「偽名」なのではなかったか?……、こう疑ってみるとするならどうだろう。
 「神崎宏美」という人物は、作品世界におけるもう一人の探偵「榎木津礼二郎」との交際が戦争のはじまりによって決定的に途絶されてしまった、というトラウマ的記憶に囚われた悲劇的な女性として設定されてある。(間接的ながら)一連の犯行のきっかけ(「澤井健一」の、擬似的で有無を言わさぬ事後承諾的な嘱託犯罪)とその後の成り行きの始終が、すべて、「榎木津とのありえたかもしれない現在(榎木津との婚姻関係)」の外傷回帰的な力によって規定されているのであったとするなら、現実に彼女の名乗らねばならなかった本名「神崎宏美」は、彼女の現在にとって、過去からの苦痛がすべてそこを通過して到来するような脅威的な「偽りの名」としてあり続けているだろう。実証的には全八百頁のどの一文にも作者によって綴られてはいない「神崎宏美」の妄想上の真の名とは、おそらく、「榎木津宏美」であった筈だ。
 探偵(あるいは警察)の役割は世界の全体性と中心の回復である、とは、すが秀実の探偵小説論「探偵のクリティック――批評の系譜」で述べられた定式である。探偵(小説)の誕生と文芸批評(家)の成立を類比的に見立て、それらが近代という地平の中で相即的に生み出された事情がスリリングに(香具師的手腕!)展開されるすが秀実のすべての議論をここで縷々再説するわけにはいかない(その必要もない。その力量もない)。探偵小説の二、三をサンプル的に俎上に上げるすが秀実はそこで、ヘーゲル以降の西洋思想史に依拠して、探偵的知(遊民的でイレギュラーな知)の在り方を、警察的知(科学合理主義的なレギュラーな知)と起源を同じくし、同時にそのほころびを補いもする、対立的かつ相補的「労働」という主題のもとで取り扱っている。近代的(資本主義的/啓蒙主義的/脱宗教的)社会の誕生が準備した都市という迷宮的な舞台で、探偵(警察)たちは知の労働(狭義の「知的労働」とは関係がない)を遂行することによって、根本的には「神への挑戦」としてある犯罪によって毀損された世界の秩序を回復することになる(探偵小説の生み出される土壌が「神の死」以後の世俗的状況にあることは疑われないが、探偵たちは「否定の否定」の衝動によって、局所的な、小さな神学的再建の試みを継続させていくだろう。デュパンがモルグ街で炙り出した「犯行」の真相が結局はあのような、ひょっとしたら笑い話にもならないくらいにまで矮小化された「神への挑戦」だったとしても)。すが秀実の議論はそこから、生真面目な知=労働に規定された探偵小説の臨界点(クリティカル・ポイント)を大きく逸脱する小栗虫太郎黒死館殺人事件』の、極度にいかがわしい、いわば「痴」的ペダントリーの方向へと赴くことになるわけだが、京極夏彦の『邪魅の雫』にとって、(幸か不幸かはこの際おき)そのような過激な視座に付くには及ぶまい。ここで確認しておきたいのは、探偵的知というものが(少なくともその淵源において)プロテスタンティズム的な禁欲精神の発露としての労働に規定され、遊民(フラヌール)的人物の遂行する神学的な再建に付く限り、また、世界の秩序と中心の回復を僅かなりともどこかで願っている限り、『邪魅の雫』における探偵的知は、中禅寺秋彦(京極堂)や榎木津礼二郎の側にあるというより、いっそ犯人「神崎宏美」によく馴染んでいるのではないかと思われる点だ。
 京極堂という探偵(的役割を当てられた人物)は、労働としての知を遂行している人物と見なすことは難しい。物語の前半に二度姿を現わして得意の「京極節」を披露してみせてはいるものの、その後クライマックスの謎解きの場面まではいっさい姿を現わさない。そこに到るまで事件を解明しようと走り回るのは警察的知の担い手たちであり、労働=知であるとする図式から見れば、ほかならぬ真犯人その人こそがもっとも精力的に、さながら物狂いに憑かれたかのように労働(犯行)を遂行していっているだろう。京極堂は最終百頁を残すばかりの場面でようやく舞台の前面に登場したかと見るや、労働のいっさいの過程をすっ飛ばしたかのような、鮮やかと言えば鮮やかな横領的(?)手際で以て(あたかも剰余価値を掠取する資本家の魔法の手口ように)、事件のいっさい始終の真相を入手する。探偵的知が世界の全体性と全秩序を回復する試みである限りは、なるほど、京極堂の「憑き物落とし」は浮遊した偽名の群れを的確にしかるべき身元へと落としこんで、その務めを正しく全うしている(エントリーの前半で記しておいたとおり、しかし私見では、それは疑わしきところまったく無しとはしない)。
 あるいはまた、つねづね「この世に不思議なことなど何一つありはしない」と公言する京極堂の探偵スタイルは、イレギュラーな探偵的知というよりも合理主義的な警察的知の徹底化と見ることも可能であるかもしれない。戦時中の一般には秘匿された知(陸軍の兵器研究というような)を特権的に領有する京極堂的身分は、探偵の系譜学的出自である都市のフラヌールという姿を大きく逸脱して、もはやイレギュラーな知と言うよりもイリーガルな知の占有者とでも称されるべき相貌が濃厚だろう。このような探偵と警察との相補関係における曖昧さ、あるいは探偵と犯人との共犯関係における不分明さ、その探偵小説における歴史的深度の測定はすが秀美の「探偵のクリティック」に詳しい。
 ともあれここでは、「神崎宏美」という犯人的身分が、「榎木津宏美」というつねにすでに失われた中心を取り戻そうと(あるいは「神=榎木津」へと挑戦しようと)、ある種の(しかし紛れもない)労働に勤しんでいたという事実を銘記しておくことにとどめよう。

余談:黒い雫とは何か?

ジジェクに倣って言えば、それは(ry

探偵のクリティック―昭和文学の臨界 すが秀実評論集

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死者の挨拶で夜がはじまる

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