三浦建太郎『ベルセルク』(追記)

 (昨日のエントリーの続き、というか、別の視点からの補足)。
 『ベルセルク』というアクション漫画が、昨日書いたような事柄すべてを覆して、それでもなおアクション漫画足りえている(読み手の意識に対して見逃しがたい動感をもたらしている)点があるとするならば、それはおそらく、読み手の情動への非常に強い揺さ振りかけがそこに働いていることによるだろう。それを単純に「感情移入」の力と言ってしまってもいいのだろうけれど、物語の内容レベルにおける登場人物たちへの、作家から読み手に向けられた強力な転移操作が、(少なくともある段階までは)とても有効に働いていたということは言える。単行本だと3巻から14巻までの、「鷹の団」の結成から壊滅までを描く物語全篇にとってもっとも重要なエピソードは、ガッツとグリフィス、キャスカの(ベタと言えばこれ以上ないくらいにベタな)三角関係の苦々しい悲惨な顛末が作家の渾身の力をこめて描かれ切っていて、その物語のいきさつを追ってきた者としては(ガッツの怒りだとか憎悪、グリフィスへのやるせないアンビバレンツな感情、キャスカに起こったことへの深い悲しみ、それらもろもろの整理しがたい気持ちへの)転移をいやがおうでも掻き立てられることになるだろう。そのような(もろにエディプス的な)物語の作りは、時代錯誤もはなはだしい、とかと腐して、簡単に片付けてしまえるものでもないと思う。三浦建太郎という稀に見る強力な「物語作家」がそれを通じてじしんの力量を世に問うたその世界観を頭ごなしにいなしてみせることにさしたる意味があるとも思えないし、そこで描かれた物語の「時代錯誤」は、たぶん大多数の人たちが、それこそエディプス期の古層で心的に経験した「(捏造された)真実」とぴったり一致するものでもあるだろう。エディプス状況的な心的形成物が偽造されたものだろうがそうでなかろうが、人はひとまずそこに、その感情経験がまるで動かしがたいブツのようなものとして現存し、現にいまも作動している(作動準備されている)ことを認めざるをえないだろう(そのような「物語」に対する批判があるとするなら、それは、根底的にそのような「物語」にかつて一度は染まりぬき、徹底的に蝕まれた者によって開始されたものでなくてはならないと思う)。
 三浦建太郎の『ベルセルク』に描かれた絵が(ある時点において)確かにある種の躍動感をそなえていたとするならば、それは以上のような、ガッツという人物に対する読み手の情動の振幅が正確に物語と同期していた事実に裏付けられたものだったろう。物語の進展がもどかしく思えるくらいにその世界に没入し、ガッツの繰り広げる戦闘(アクション)の逐一を無我夢中になって視線で追いかけるその時、ページをめくる手と物語を進行させる目は、意識にとって、つねに少しだけ「遅すぎる」というもどかしさの感覚を与えるだろう。物語に煽られるようにして絵を追いかけるその視線を振り切るようにして、確かにそこで(わたしたちの経験において)、絵は「動いていた」と言えるだろう。