こうの史代『さんさん録』

さんさん録 (1) (ACTION COMICS)

さんさん録 (1) (ACTION COMICS)

 
 こうの史代の『さんさん録』という漫画は、一種の幽霊譚として読むことが出来るだろう。その場合、幽霊とは無論、主人公「参さん(奥田参平)」の亡くなった妻「おつう(鶴子)」さんを指すけれど、それはまた、「おつう」が「参さん」に書き残した家事諸般に関する備忘録(「奥田家の記録」)の言葉たちでもあり、あるいはまた、「参さん」や家族たちの頭上の風景の中でひらひらと舞う蝶々の翅のはばたきとしても宿っているものだろう。ただしそこで、「おつう」さんの幽霊が実体として現われている(幽霊の実体?)わけでは全くなくて(いわゆる「幽霊」が物語の主題として描かれているのではなくて)、作品に描かれた世界にとって「おつう」さんの残した言葉や存在感の断片たちが、記憶として、「参さん」や残された人物たちに折りに触れそっと宿る、その現前の幽かさ、立ち消えのなさこそがここでの幽霊の感触を形作っているだろう。それを単に、死んでいった者に対する生き残った者の「追憶」や「記憶」、「思い出」と言い切ってしまうことは、たぶん出来ない。幽霊の身分とは、記憶や思い出のようにある人の抱える過去に居所が定められてあるわけではなくて、なによりもまず、その人の現在に取り憑く解消出来ない不透明な実在感を身に纏った、もっと厄介な何かであり続けるものであるだろう。

「いつまで見てんのよ」
「…まったくだ」
「ちきしょう」/「なんていい天気だ」
「こんな時までにこにこ見てるやつがあるか」
(『さんさん録』2巻 142頁)

 「見てると思わなきゃいいのよ」とはこの物語の最終章に名付けられた題名であり「参さん」の恋する女性の心情に当てられた言葉だろうけれど(あるいはひょっとしたら「参さん」の言葉かもしれないけれど)、じれったく、しかし着実に進んでいく二人の恋仲を「にこにこ見」守り続ける「おつう」さんの視線は、解消されることもないまま(その必要もないまま)、依然、「参さん」の生の時間とともに息づいているだろう。幽霊はそこにあり続けている。そしてまた幽霊は、「参さん」をはじめとする物語の登場人物たちにのみ宿っているものでもない。
 わたしたちが『さんさん録』という物語の門を潜り抜けるその時、始まりであるこの場は、「おつう」さんの死という「参さん」にとってのひとつの終わりと引き替えられるようにして開始された(息子の家族たちとの)新たな生活として、さながらリレーのバトンが走者から次の走者へと手渡されるようにして、始動していた。物語が締め括られる終わりの局面においてもまた、「参さん」にその後程なく訪れるであろう「仙川さん」との新たな生活の始まりが予示されながら、息子家族たちとの共同生活の終わりがさり気ないニュアンスで告げられることになる。何かが終わることと別の何かが始まることは(何かが始まることと、別の何かが終わることとは)、こうの史代の『さんさん録』の世界にあって、ほぐしがたく絡み合うしたたかな原理のような具合いで、その時間と空間を縫い合わせている。生の時間と死の無時間との区別の間に膠着する矛盾律の掟(あれか、でなければ、これか)を朗らかにに笑ってみせるかのようにして、未だ生きてあることでもあり、同時に、既に死してあることでもある、幽霊の、「あれであり、同時にこれでもある」時間が現われる。幽霊は人物たちにのみ現われるのではなく、『さんさん録』の世界の地平にも取り憑いている。そして、こうの史代という漫画家は、(おそらく、この『さんさん録』という作品に限らず)その世界の幽霊的に存続する様を肯定するためにこそペンを持ち続けているのではないだろうか? (『夕凪の街 桜の国』、『長い道』と彼女の三作を読んだだけの印象で確たる根拠は特にないけれど)。

さんさん録 (2) (ACTION COMICS)

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