押井守『イノセンス』

(記録をかねて、前に書いた拙い文章を、じゃっかんの手直しを加えてアップしておこうと思う。2年前のやつ。あらためて読み返してみて、われながら鼻持ちならない語調の文章だし論旨も飛躍しきってよく内容を掴みづらい悪文だけど、若書きってことで自分で自分を許す。若くはないんだけど。押井好きの人たちにも是非許してもらいたい。なんだかんだ言ってわたしは押井守が好きなんだと思う。そうして、押井のことが好きな自分に、じっさいウンザリしているんだと思う。)

イノセンス スタンダード版 [DVD]

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 DVDで押井守イノセンス』。前作『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』で押井守が犯した決定的な間違いは、ネット世界――それはサイバースペース、「均一なるマトリックス」、仮想現実、電脳空間等々、何と呼ばれようと構わないが――というものに対する、彼の神秘主義的な了解にすべてが帰着するといった態のものだろう。
 端的に、単なる情報が集積する場所に対して未知の、未曾有の、未聞の、――ともかくは何らか、古い人間性を都合良く大胆に刷新するような新たな超越的体験を仮託して物語を語り終えるあの結構は、決定的に誤っている。押井守は目を覚ましてPCのモニタに向かい、どこぞの掲示板なり日記なりを真摯に覗いてみるべきだった。それだけのことで、少なくとも彼の見聞の及ぶ範囲には、彼が幻視した神秘などはひとかけらも転がってはいない事実に気付くことが出来たろう(あるいはそれがそろばんずくだったのだとしても、なおさら、そのような神秘主義をカマトトぶる、お為ごかしのみっともなさに事前に恥じ入ることが出来た筈だろう)。
 彼は神秘主義に幻滅できた筈だった。銃火器の取り扱いや戦闘車輌のディテールに対するのと少なくとも同等の説得力を、その世界観に獲得しえた筈だった。
あるいは、直截にこう断言してしまった方が話が早い。すなわち、この世界を越えた彼方の世界などどこにも存在しやしない、と。
 前作において「人形使い」と合一し、超越的な彼岸へと旅立っていった草薙素子はだから、ありえない場所に消えていった女としてそもそも事の始めから存在していないも同然の女とみなしうる。その女に恋慕を寄せる男がいるのだとしたら、彼はつまり、自分自身の意識の裡に作られたイメージに対して恋焦がれていることになるだろう。自意識の球体の内面――食糧雑貨店で電脳を乗っ取られたバトーの視覚の、歪んだ魚眼レンズ仕立てのあの主観映像を思い出されたい――に投影された「少佐」という表象に囚われた男には、彼の望む何事かの成就は、未来永劫閉ざされたままであり続けるだろう(ちなみに「草薙素子」が本作では一貫して固有名ではなく、「守護天使」、「聖霊」といった一般名で呼ばれていることにも注目しておいてよい。それは彼女が、目の前にいる具体的な「この女」としては存在していないことの符牒だ)。
 そしてより正確には、男はそこで、何事かの成就をこそ恐れ、回避していると指弾されるべきだろう。
 「バトーは、生きた人形(サイボーグ)である」というよりも、率直に、彼は一個の不能者(インポテンツ)である、と言われるべき存在だ。
 押井守によれば、その時(腕も身体も自前のものではなくなってしまったその時)、しかしその失われた身体感覚(の充実感)の代補としての犬がいるではないか、犬がいればそれは充たされるではないか、ということになる。
 無論これは馬鹿げた思考の遊戯だ。陳腐を通り越してお話にもならない。一言、お前の腕を、体を、その陰気な面構えをもう一度鏡越しにとくと確認して凝視し直してみろ、と言ってやるべきだ。そこに何が映っているか、と。見紛うべくもなく、毎朝毎晩厭というくらい見慣れたお前の姿がそこには否定しようもなく映り込んでいるだろう、と。フェティシズムだの存在論的懐疑だのといった大文字の問題にかまけて、お前はお前のもっとも卑近にしてもっとも切実な難問を巧みに回避し続けているだけなのではないか?……このような疑惑はいつまでたっても押井守を苛み続けるだろう。問題は、それに耐えることの倫理を果たして押井がいまだに保持し続けているかどうかだ。
 「即ち鏡は瞥見す可きものなり。熟視す可きものにあらず」(草薙素子)。
 しかし、鏡の魔を回避することを口実に、卑近な己の顔立ちを熟視することをも回避することがあってはならない。
 こう言っていい。
 押井守は一個の不能(志願)者である、と。彼は恐れている。

 ナルシシズムにとって鏡は重要なアイテムである。自分の顔がそこに映り込むから、ではない。自分の鏡像がそこには映らないから、自分の鏡像がそこでは消去しうるから、フェティシズム的な去勢のイマージュがそこに想像視(実現)されうるからこそ、それは彼らの必携のアイテムとなる。それは否定要素の具現化をナルシストたちに可能とする魔法のアイテムだ(醜形恐怖に患う者は求めて鏡を覗き込む度、次から次へと自分の容貌に関する欠如要素を数え上げ、拾い集める。その時。彼/彼女の真に見ている像は自我理想のありえざる投影像と化している。彼らは何ものもそこに認めない。そして、そのことによってそこに不可視の鏡像のみを認めることになる)。
 『攻殻機動隊』における草薙素子と「人形使い」との合一化は、主体の、鏡像-自我理想との完璧な同化を体現している。
 そもそも、「義体」というガジェットこそがこの鏡像の実現化を可能とするアイテムであると言うべきだ。
 『攻殻機動隊』、『イノセンス』両作のタイトルバックに描写される「義体」生成の場面、マイクロマシンの充填された溶液の中をゆっくりと上昇していって鏡面と化した水面へと浮上し、主客未分のエロティックな合一が果たされる直前、それこそが他者なきナルシシズムの至高の無時間の顕現を刻印するものだろう。すなわち、他者への架橋の断念(祈念)、その不能性を刻印する――。
 ナルシストたちのちっぽけな全能感は彼の私的な世界を隈無く覆い尽くす。この世界の唯物的条件を棚上げし(これは具体的・即物的に、掛け値無しに押井の「顔」に係わる話だ)、一足飛びに超越して彼岸へと到り、全世界のありとある場所を掌中のものとする。「人形」とはそういう存在だ。それは、融合し分身を産み出し増殖する、多面鏡に映る無数の鏡像だ。無数に現われながら単数的である。そこにはどこまでいっても鏡像を産み出すだけの独我論的な自我しか存在しない。少女の叫びは虚しく響く。
 たとえば『イノセンス』のクライマックス、「少佐」が降臨=ダウンロードしたのはどの「身体」においてだったか? それは少女の形をした「セクサロイド」に他ならなかった筈だ。女は、男の愛した「この女」として、仮初めとはいえその時、確かにこの世界に化肉した訳だ。
 その時、バトーは「何事か」を「成就」できなかっただろうか?……いいや、当然それは可能だった。むしろ、男はそれを積極的に「成就」すべきだった。少女の叫び(「私は人形になりたくなかったんだもの!」)を真に内実あるものとして響かせる為にも。
 つまり、スクリーンという「鏡面」(=映画)そのものを、押井その人の手で改めて、粉々に粉砕する為にも。
 そして、押井守はそのような結末を選ばなかった。その結果が残った。

 ……以上の文章はまあ、同病を患った者による(しかし、互いに相憐れむ事だけは回避せんがために要請された)処方箋めかしたささやかなコメント、あるいは正直に告白すれば、一種の自己診断書を兼ねたメモランダムといったものに過ぎない。
(2004.9.21)