大友克洋『スチームボーイ』

スチームボーイ 通常版 [DVD]

スチームボーイ 通常版 [DVD]

 公開当時に劇場まで足を運んでみた作品だけど、あらためてDVDで。……で、重ねてあらためて瑣末なことに気付いたんだけど、そういえばこのお話の時代設定である1866年ていうのは、『資本論』刊行の前年にあたる年なのだった。オープニング直後の、仕事上がりのレイ少年がマンチェスターの街を歩いていく雑踏の場面で、新聞の売り子の少年が、骨粉入りの混ぜ物されたパンが不法製造されていた事件について呼び声を上げている、という光景がちらっと描かれているけれど、この辺りの当時のマンチェスター製パン業の事情は資本論でも何箇所かで触れられていたりする*1。どうでもいい類の話かもしれないけど。
 ……劇場で観た当時は確かいろいろと感想を抱いた記憶があったんだけど、今回久しぶりに鑑賞してみたら、意外に何も感慨が沸いてこなくて、軽く戦いた(感受性的な何かが決定的に鈍磨してしまっているんではないか?)。三つ一組の宝物(「スチームボール」)の争奪を巡る、三つ巴の勢力・領域(国家/科学/資本)の争いを、三人からなる一つの家系(祖父ロイド博士、息子エドワード博士、孫息子レイ)を軸に展開するこの物語の構成は、しかし無論のこと(妥当に考えれば)、そのしからしむる帰結として、それら諸々の三つのものが相互に排他的にしか関係しあえない(共存しえない)という、いわば「陣取り合戦」的な様相を示して進行するよりほかないのだろう。「スチム」一族の物語という年代記的な縦軸に沿ってこれを観れば、オリジネイター・ロイド博士の初発の着想と理想を、この血族の呪縛・妄執にまで亢進させ過激化させた二代目エディーのアンチテーゼ的な有り様があって、そのようなモロに弁証法的な物語の隘路を、レイ少年が結果ジンテーゼするにとどまったのか、それとももっと別のオルタナティブを創出しえたのか(すくなくともその可能性を垣間見させてくれたのか)、そのあたりの見方の如何によって評価は変わってくるんだろうとは思う。
 ……たとえば、≪二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ≫*2という夏目漱石の有名な排中律は、カントのアンチノミー論によってこれを批判的に補うならば、≪二個の者が「同時に」same spaceヲoccupyスル訳には行かぬ≫と言い直されねばならないだろう。つまり、≪二個の者は「通時的には」same spaceヲoccupyスル≫。そこからヘーゲル弁証法まではあと一歩だけど、ここで言うその「二個の者」とは、象徴的には、ロイド博士の理想主義的な科学信奉とエドワード博士の未来派的な科学技術至上主義の対であり、あるいは、イデオロギー対立として捉えられるべき純粋な科学技術への賛美ともろもろの国策的な基礎への官僚的配慮の対、ついでまた、資本の軍産複合体への蛹化の兆しとネーションステイトの反動的抑圧の対、……等々として作中に描かれる、相互に補いあう対立の図式だ。結局、弁証法的な陣取り合戦の馬鹿騒ぎに終止符を打つには、真理の場(「スチームボール」)そのものを廃棄するしかないということになるのだろう。
 ……と、以上ゴチャゴチャ綴ってみたけど、なんか大袈裟すぎて苦しい。普通に面白かったし興奮したでいいや。うん。続編観てみたい。

*1:凄すぎてもはや不二家ってレベルじゃないので引用してみる。≪……聖書に精通したイギリス人のことであるから、人間は、恩寵によって選ばれた資本家や地主や冗職牧師でないかぎり、額に汗してパンを食うように定められてあることは知っていたが、しかし、人間は、毎日そのパンとともに、明礬、砂、その他の結構な鉱物性成分を別としても、腫物の膿や蜘蛛の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母まで混ぜ込んだ、一定分量の人間の汗を食わねばならないことは知らなかった。≫岩波文庫資本論(二)』一二四頁
職業倫理の低下だとか怠慢だとか自惚れってレベルじゃなくて、マルクスはここで、その種の倫理違反といったものが、しかし利潤を追求する資本の厳密な論理には完全に合致しているってレベルを伝えようとしている。

*2:あるいは視点を反転させて、occupyされるべき(論理学的に見て)「真理」の場所である筈の≪same space≫(「スチームボール」)の側から問題を見返した場合、口真似ついでにさらに話を引けば、≪一個の物(「スチームボール」)がdifferent space(諸勢力/諸領域)ヲoccupyスル訳には行かぬ≫とでも言い換えられるのが適当だろう。