回帰することのない現在

 ……世の中にはいわゆる記念日ってものがある。私人の小さな区切りとしての誕生日やら結婚記念日、喪の儀式としてのо回忌といったものから、大きな規模では、一国の独立記念日だとか終戦記念日
 たとえば、「1967年2月27日」という歴史的(単独的)な日付は、ほかならぬ「1967年2月27日」以外の、いかなる不定の別の日、別の時間とも重ならないある特定の期日として限定され、一回限りの固有の日付としてわたしたちの歴史に登録されている。「1967年2月27日」を記念日とすることは、カレンダーという循環する時間の象徴的な擬制(フィクション)の下で、この「1967年2月27日」という日付の一回性、単独性を(幾度となく)再召喚し、また想像的に再現前させようとする、(歴史=事件の固有性そのものに対しては)ある不実ないっこの儀式としてもあるだろう。事件とは、ここで端的に、それを/が通過して以降、もはやわたしたちが、その出来せる事実の固有性への畏れ抜きには何事をも語り得ず、また為し得ず、その限りにおいて、現在といったものが、それ以前の時間への後戻りの不能を刻印する一点を決定的に踏み越えてしまったというあられもない鈍い痛覚にも似た感触を伴わずにはそこで生きられることがもはや不可能な――そして、その不可能性の露呈、露見の不可能性の非-認識論的な非人称的環境においてのみかろうじて触知可能な――時間的試練をわたしたちの固有の生の諸断面に、無数に、不断に投げ掛け続ける、ある過酷な体験の原質を形づくるものである筈だろう。「記念日」という象徴的な擬制が組織する想像的な健忘と想起の、律儀で退屈で誠実な循環的継起の儀式的形骸を内破させながら、事件としての歴史が、「1967年2月27日」の死せぬ亡霊の現在が、わたしたちの生存の原基においてさざめきととよめきの槌音を、低く、深く、響かせ続けている。


……つまり、お誕生日おめでとうございます!ってことであります(……今日でしたよね?)。