東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

 この評論で取り上げられている「美少女ゲーム」だとか「ライトノベル」とかには結局最後までまったく興味を覚えることができなかったけど、とてもよくできたたいへんな力作評論だとは思った(個々の作品や当該ジャンルの状況にかんしての知識が皆無なので、そこで示されている理論の展開や作品の解釈がほんとうに妥当なものなのかどうか、オタク界隈で妥当なものとして受け入れられているのかどうか、まったく判断できないんだけど、東さんのこの批評的な手続きの逐一を追うかぎりは、少なくともぼくのような門外漢に対してもじゅうぶん説得力のある議論であったように思えた)。まるで精巧な機械でできた見事なオブジェでも眺めているような感じがして、読んでいる最中溜め息をついて感心したり、(事情を知りもしないくせに)思わず膝を打ちそうになって自重したりもしたんだけど、読み終えて、じゃあ今後の自分の人生にとって何か消し去ることのできない痕跡のようなものをこの本は残したのかとみずから問うてみれば、それはまあない。率直に、東浩紀はやっぱり頭がいいな、と。しかし自分にはどうあっても無縁らしいな、と。
 結果、むしろ、批評の対象の方ではなくて批評そのもののおもしろさを確認したような恰好になった(こういう受けとめ方は、批評家当人には歓迎されない態度だとは思う)。

 いくつか素朴に疑問に感じたところもある。先行する議論に即して、この評論にはキャラクター小説(や美少女ゲーム)の「自然主義的な読解」と「環境分析的な読解」という、作品へと向かう際に読み手の取りうる二つの異なる解釈方法が対照的に提示されている。「自然主義的な読解」は、近代とともに誕生したそれじたい「自然主義」的な小説を応接する際に求められる読解の従来ある一般的な作法であり、作品内部の物語の内容と作品外部の(作者、読者がともにそこに内属する社会的な)現実とを、完結したリニアな対応関係のもとに結ぶことによって、作品から意味や意図を読み込んでいく態度を指しているとされる。「自然主義的な読解」を誘う「自然主義的リアリズム」の作品は、その百年前の起源にこそ独特の(評者によっては「血塗れの格闘」とも形容されるような)、人に屈折を強いる光景が刻まれてはいるものの、現在の言語環境ではごくごくあたりまえの(透明な)読み書きの水準として国民国家的に定着されていて、わたしたちは「素朴」に小説を読み、そこから「素朴」に作者の意図するメッセージや物語が反映する現実の側面を引き出すことが可能となっている(とされる)。東さんの議論はそのような近代的な言説環境の「素朴」さを歴史的な前提としつつ、そこから作品を幾重にも「屈折」させることを強いるポストモダン的状況の猥雑さ、複雑さの方へと切り込み、旋回していくことになる。そこで新たな批評の視座として提案されることになるのが「環境分析的な読解」ということになる。「環境分析的な読解」とは著者じしんの簡潔な定義によれば、≪自然主義的な素朴な読解と異なり、物語と現実のあいだに環境の効果を挟みこんで読解するような、いささか複雑な方法であ≫り、≪作家がその物語に意図的にこめた主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を作品に呼びこんでくると考える≫ような作品解釈の態度を指している。ここでいう「環境」とは、作品の送り手と受け手双方の想像力を外在的に規定しながらも、現象化された具体的な作品のあらわれが想像力の母体へとフィードバックされることによってそれじたいが再帰的に変容をこうむるような内在性をもそなえた、社会的でメディア論的な与件とでも把握しておけばよいだろうか。付録の評論二篇を含め第二章以降で展開される具体的な作品論は、そこで分析される小説やゲームを知らない人間にとっても、刺激的で野心的な試みとしてじゅうぶんたのしんで読むことができる(ぼくはできた)。大塚英志氏の図式と語彙を継いで「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」との相補的な対立と相克の中から、「ゲーム的リアリズム」の現在の動勢を環境分析的に剔抉してくる論者の手際はとてもスリリングだ。しかしまた、この本を読んでいて「素朴」に疑問を感じてしまうのもこのじっさいの作品論のパートに集中している。
 「ゲーム的リアリズム」を組織する小説や美少女ゲームのテキストは、単線的で「素朴」な「自然主義的リアリズム」の作品を読む際の態度とは異なり、その多層的に畳み込まれた「環境」の効果を読み解くために必然的に、複雑で「屈折」した、いわば複眼的な「環境分析的な読解」によって試験をかけられねばならない、という東さんのそのあたりの主張はよくわかる。しかし、そもそもその主張じたいが、実は著者がことごとしく謳うほどの「新しい視座」としてほんとうにあるのかどうか、という点がまず気になる。かつて文芸評論家としての肩書きを掲げていたこともある東さんは、もちろん『ドン・キホーテ』の物語の成立過程を知っているはずだし、あるいは新聞小説だった漱石『猫』のもつインタラクティビティ(!?)の痕跡に気づいていないはずはないし、あるいはまた、ヌーヴォーロマンの作家たちのメタフィクショナルな試みを忘れているはずもないだろう。(実は『ドン・キホーテ』は読んだことないし、ヌーヴォーロマンもついこの前初めて読んだようなズブの素人であるぼくみたいな人間でさえパッと思い浮かぶ)それらの文学史的な固有名を、東さんはここであえて抑圧し隠蔽していることは明らかで、しかしその振る舞いへの疑問に対する回答もあらかじめこの本の中には書きこまれてはいる。「ゲーム的リアリズム」の地平の遠い過去に、血縁をもたない父祖のようにしてたたずんでいるその(おそらく上記以外にも無数に挙げることが出来るであろう)文学史的固有名たちは、思潮(イズム)としての「ポストモダニズム」であり、あるいはこの「ポストモダニズム」を主導した柄谷・蓮實的な「汚染」(!)によって脱色不可能なまでに浸りきっており、他方、わたしたちの90年代以降の現在を全面的・無差別的に容赦なく侵食するこの「ポストモダン」の留保のない侵攻はもっともささいで取るに足らないようにも見えるありふれた表現物にまで否が応でも迫り出してくることによって、それら狭義の「ポストモダニズム」の特権的で特殊で個別的であった思想的課題をいったんお払い箱にせざるをえない地点にまで地歩を進めつつある、ということなんだろうと思う。「データベース消費」であったり「萌え要素」であったり「メタ物語」であったりは、この、地べたを這い上がってくるようなポストモダンの「新しい」進行の唯物的な所与となっているということだろう。しかしまた、そのような、自説の立場の「新しさ」を呼号することがパフォーマティブな水準で言説にまとわせてしまう古さといったものがあるというような冗談はさておくとしても、「環境分析」と名付けられたこの「新たな」読解によって作品から取り出されたその具体的な諸成果に関しては、意外にも「素朴」で、こう言ってはなんだけど、実は既視感すら覚えてしまうところもある。視点人物を物語世界に内属するキャラクターのレベルとメタフィクショナルで物語外部的なプレイヤーのレベルとに選り分け抽出した上で、後者の視点にあらかじめ折り込まれてあった、『「ゲームのプレイヤー」として生きることを余儀なくされたわたしたちのポストモダン的な生の条件』の様態を、「構造的主題」のもとに再切開し可視的なものとして作品から引き出してみせることを謳うその「環境分析的な読解」の試みは、この本に収められたその実践のいくつかを読むかぎりでは、隠喩の所在を中心にしてその解明へと向けて一目散に突き進もうとする、とても真っ当な、しごく「素朴」な謎解きの衝動をけっして隠そうとはしていない。隠喩の意味探しとはしかし、これ以上「素朴」な小説への接し方はないのではないか。おもえば、大塚英志の「自然主義的リアリズム」だとかその「自然主義的な読解」だとかいう東さんの受け入れた最初の前提が、そもそも(あえて)ピントがずらされているのだと思う。『蒲団』でも『破戒』でもなんでもかまわないけど、読み手が作品のあらわれたそこに、象徴とか隠喩だとか隠されたメッセージだとかはからずも呼び込まれた主題だとか記号を超過する身体性やらを読み込んでしまう(言葉から字義通り以上のものを受け取ってしまう)ことは、言葉と人との関係の常態といってもよいものだろう。その意味で、「自然主義的リアリズム」に対する「まんが・アニメ的リアリズム」とか「ゲーム的リアリズム」とかいう図式の設定は、そこに盛り込まれた(「想像力の環境」の土台としての)メディア論的な意匠の新しさはあっても、性懲りもなく隠喩を生産し消費しつづけるかぎりでの人間の営みといったものを刷新しようとするものではない、ということは言えると思う。

 「郵便的不安」に取り憑かれながらも作品から隠喩の意味を間違いなく受け取る、あるいは、自分の評論の読者に向けてその意味を誤たず送り返す、とはしかし、やっぱり、とても東浩紀らしいなと、これは皮肉抜きに感心する。正直言って文章も感性もまったく性に合わないんだけど、そのようなある種の倫理的な姿勢を貫いているかぎりで東浩紀の活動は今後も信頼できるものであるだろうし、尊敬に値するものでありつづけると思う。いい本だった。