ミシェル・ビュトール『時間割』

時間割 (河出文庫)

時間割 (河出文庫)

 気になった一点だけ(作品の内容とはあんまり関係のないこと)。
 大雑把に見れば、この作品には「書かれたことば」の塊りが二つ見出せる。研修のためにイギリスのブレストンという架空の都市へとやって来たフランス人の青年ジャック・ルヴェルが、一年間にわたるその滞在期間の半ばも過ぎた頃からみずから強いて書き始め、『時間割』というこの小説の言葉の総体に対して外延と内包を寸分違わず一致させることになる、回想をまじえた日記の言葉たちがまずひとつ。その主人公ルヴェルの日記の中で重要なトピックとなる、友人の作家ウィリアム・バートンのJ=C.ハミルトン名義による推理小説『ブレストンの暗殺』の言葉たちがいまひとつ。
 一方は、流動的で可塑的な言葉たちによって日々自己再帰的に産み出され、追補や修正によりしだいに嵩を増していきながらも、あらかじめ宛先を失っていることによって、私秘的な記録としてついに書き手の机の上から離れていくことがない(かつて愛した姉妹のもとへ、この紙片の束を置き土産として送らねばならないとしたルヴェルの表明は、作品の末尾において、じしんその決意の翻された姿が確認される)。他方は、その内実の根幹をなす重要なプロットの一端(「カインの弟殺し」になぞらえられた物語)が提示されるのみで『時間割』というこの小説の読み手にはその全容はまったく知ることが出来ないけれども、一冊の書物という死んで閉じられた形態をもつことによって、『時間割』という作品の内部を、譲渡や貸し借りという形式で人から人の手へと渡り、あるいは紛失され、あるいは思わぬ形で複製を見出し、あちらこちらで流通し循環することになる。
 ≪開かれてさえ閉じることへと向けられている、抑圧の洗練された形態にほかならない書物≫というようなことをブランショはある場所で述べているけれど、この、死物としての一冊の書物がそこで対比されることになるエクリチュールとは、そのブランショの文章が標題に掲げる「ビラ・ステッカー・パンフレット」の、街頭へと撒布されてやがてほどなく散逸し、誰の記憶の堆積の中にも居場所を持つこともなく、すみやかに消滅していったある一群の言葉たちを指している。J=C.ハミルトンの『ブレストンの暗殺』がそうであったような一冊の書物という形態をまとうことこそなかったものの、しかし結局はジャック・ルヴェルの部屋の机の上からほとんど動くことのなかったあのブレストン滞在の一年間に捧げられた彼の日記の言葉の逐一、万年筆の黒インクによって白紙を掻き削るようにして書かれていった分厚い紙片の束の堆積、ルヴェルみずからの手によって炎上させられることを最終的に免れてしまった彼の回想録のことばのすべては、「ビラ・ステッカー・パンフレット」のたぐいがくぐり抜けねばならなかった街頭の中での消滅という出来事からもっとも遠い場所で、その先もふてぶてしく生きながらえていくことだろう。『時間割』というテクストがその内部で自生させるさまざまな主題群の繁茂――火災の作り出す赤い炎と黒々とした焼失物との対比に代表される色彩の対照であったり、神話や聖書の物語に照応する登場人物たちの配置であったり――は、ことばがことばじしんを糧としてしたたかに、うんざりするくらいに執念深く、みずからの生を存続させていこうとするさいの恰好の好餌となっているという見方も可能かもしれない。
 ……そういえば、丹生谷貴志がどこかで、モニタの上の書きかけの原稿のことばのいっさいがささいな手違いからあっというまに消失してしまった経験のこの上ない愉快さ、みたいなことを書いていた記憶があるけれど、作家ビュトールがけっして信じていないものとは、たとえば、そのような愉快をもたらすことも場合によってはあるであろう、物事の完全な、あっけないまでに単純な、断絶の意識さえ生じさせない完璧な断絶といった事態のあらわれる可能性なのかもしれない。今日、ぼくの足の下で死んでいった蟻の死は誰にも知られなかったかもしれない。誰にも書き留められなかったかもしれない。いかなる反復も拒むそういう決定的な消滅もまた、確かにこの世界にはいたるところに溢れてはいる。まあ、それだけのこと。