マニュエル・ゲッチング/E2-E4

E2-E4(紙ジャケット仕様)

E2-E4(紙ジャケット仕様)

 マニュエル・ゲッチングのE2-E4の何が困るかといって、このCD版でトータルタイム59分34秒に及ぶ一曲を収めたアルバムを一度聴き始めてしまうと、その間ヘッドフォンを耳から外して他のことをすることが(たとえば本を読んだり考え事をしたりすることが)まったく出来なくなってしまうってことだ。
 たとえばポストモダン的な読書体験の教訓のようなものとして、『吾輩は猫である』みたいな長い(にもかかわらず、本質的には断片的な)小説を最初から最後まで読み通す奴は馬鹿だ、みたいなことを言う人がむかしいたような記憶があるけれど、そこで言わんとされているような、「読んだ」という事実がある種の「苦行」をくぐり抜けたかのようなナルシスティックな達成感と短絡しているような読み方は確かにまったくダメだとしても、しかしそのような発言をすることでそのポストモダン的な識者がそそのかそうとしている「教訓やら人生訓のような意味のない重荷をはずして手ぶらに読むことの権利(ないし、過酷さ)」みたいなこととはひとまずまったく関係ないところで、人は読みたいものは石にかじりついてでも読み続けるだろうし、あるいは『大論理学』みたいな本をベッドで横になって読むんじゃなくて眉間にシワを寄せて机にかじりついてでも読まざるを得ない内発的な動機に促される場合だってあるだろうし、『猫』を無我夢中になって最初から最後まで通しで読んだりもするだろう。『大論理学』はどうだか知らないけど、漱石の『猫』なんかはふつうに面白すぎて、けっこう平気でぶっとおしで読めたりする。ポストモダン的な知識人の自由の擁護みたいな見地から発せられたその「教訓」はだから、一方で(あまり意味があるとは思えない)とても抑圧的な効果を波及させたりもしていただろう(「これを読み通す必要はない」という反教養主義的なメッセージが、「これを読み通してはならない」という抑圧的なメタメッセージとして誤認されることの可能性みたいな)。
 マニュエル・ゲッチングのE2-E4を聴いていて困るというのは、デジタルなユーザー環境がトラック単位(どころか秒単位)で読み出し可能にした、楽曲への聴き手のアクセシビリティ(データに対する「自由」な操作可能性)、ということは同時に、楽曲から気に入らない部分を遠ざけ退けることも可能にする「自由」な態度が、しかしこの楽曲のもたらす音楽的体験の強度を前にして、聴き手はおのずからそのような「自由」を放棄するよう促されつづけるという、ある種とても不埒な経験にこそある。端的に言って、E2-E4はそれを一度聴き始めたらその音楽の場からみずからを引き離すことなど容易には許さないくらいに、これはもうほんとうに素晴らしい楽曲だってことだ。
 自分自身のためのメモもかねて簡単な紹介がてら書いておけば、マニュエル・ゲッチングという人は七0年代のドイツでアシュラ・テンプル(のちにアシュラ)というジャーマン・プログレのバンドに属していたギタリスト兼シンセサイザー奏者で、このE2-E4という作品は、おりからのパンクムーブメントとニューウェーブの興隆の煽りを食らって半ばレコード会社(ヴァージン)から放逐された恰好だったゲッチングがベルリンのスタジオにこもって八一年に制作してあった録音を、八四年にたまたまかつての盟友クラウス・シュルツ(元タンジェリン・ドリームのドラマー)の耳に入れたことがきっかけで、シュルツのレーベルからリリースされることになるという経緯をもっている。テクノの歴史的には楽曲の成立過程と同じくらいに重要なのが、同時代からは無視され黙殺されてしまっていたこのE2-E4を、リリースから十年後、九四年にデトロイトカール・クレイグがペーパークリップ・ピープル名義で自分の主催するレーベル(プラネットE)から「リメイク」というタイトルでカヴァーしたことにあるだろう。以降は、不遇だった時代の負債を取り戻すかのように、テクノとかハウスの音楽シーンでは一個の大きな参照項としての地位をしっかり確立しているようだ。
 カール・クレイグのリミックスは聴いていたんだけど肝心のゲッチングのオリジナルを今まで耳にせずにいたことを思い出して、あらためて調べてみたら去年に紙ジャケ仕様のCD版がリイシューされていたことをこの前知って、そこでようやく本編を耳にすることが出来たのだった(その存在を知ってから、実に13年目にしてやっと)。


 E2-E4の抱える59分34秒という持続するその時間のすべては、ロックの8ビートの性急な感じともまた違う質感をもつ、もっとゆったりとした八拍の電子音の(BPM120弱くらいの)リズムをキャンバスのような「地」として、その上で基調音として響くシンセベースの短い旋律を基本単位にして反復させることに費やされている。データ上ではトラック単位での区切りがいっさいない一連なりの楽曲として音楽が反復的に持続していくのだけれど、名目的にはゲッチングはこれを、10のパートに分けて構成していて、それぞれのパートには、展開するチェスの勝負の諸場面に見立てたタイトルがつけられているみたいだ(エンボス加工のシンプルで美しいジャケのデザインはチェスの盤を模している)。その反復する基本のリズムとメロディの上に、音響素材的なシンセの単音がアクセントとして散発的に色取りを添え、新たな音の要素が細かく出入りしたりしながらちょっとずつ空間のニュアンスを変えていくことにより、長い持続をまったく飽きさせずに支えていっている。この楽曲の聴かせどころは、31分過ぎから本格的に始まるゲッチングによるギターのフリー演奏とプログラムされた電子音響とのセッションの場面にあると思う。E2-E4という楽曲は、今日のテクノやハウスのシーンにおけるその受容状況が明確に語っているように、もともとの音の質感がとてもトランシーで(そのストイックでシンプルきわまりない構成のゆえに、むしろ)全編ダンス的な振動に貫かれた楽曲ではあるのだけれど、たとえば、カール・クレイグのリメイクという優れた名曲にはなくてゲッチングのオリジナルだけがもっているグルーヴ感とはこの、ゲッチングのギター演奏それじたいがそこで、じかに、すでに、聴き手にダンスの感覚を生じさせるより早く、シンセとともにたしかに踊っている、という羨ましいほどに感動的な光景を見せつけてくれていることにあるのだと思う。ここには、「ダンスのために組織された音」と「それじたいがダンスとしてある音」との差がある。という意味合いで、このゲッチングのE2-E4という楽曲を聴く者は、何よりもまず、そこで(ゲッチングのかきならすギターの旋律の運動に耳を晒しつつ)歯がみせずにはおれないような嫉妬とこの上ない愉快との二つの情動のあいだで身を裂かれる体験を強いられる者、という風に言ってもいいかと思う。
 たとえばそこには、七0年代初頭にノイ!のクラウス・ディンガーがドラムマシンのようにジャストなテンポで刻んでいた倒錯的なビートとはまた別種の、電子音響と人間との出会いの瞬間が刻印されているかもしれない。同じくノイ!のギタリストだったミヒャエル・ローターが抱いた「機械のリズムとセッションを交わすことの夢」が、ここではゲッチングによって全面的に開かれ実現されている。
 六0年代後期から七0年代にかけて活躍したノイ!やクラスターの手がけた電子音楽には、シンセの音を「演奏的」に使用してトータルに自分たちの楽曲を作り上げるというようなミュージシャンぽい志向がはっきりとうかがえる(ジャーマンロックの人たちは、総じて、ブルースとかロックといったプレイヤー志向の音楽に基礎をおく、ミュージシャンとしての相貌ももっている)。他方、八0年代半ばから活動を開始するデトロイトテクノのおもだった面々には、ジャーマンロックの人たちのようなミュージシャン的な素養に裏打ちされた側面はとても希薄だ(履歴を調べたわけじゃないから断言は出来ないけど。そしてまた、ターンテーブルこそが彼らの演奏する楽器にあたるという視点もありうるけれど、その点につきここではあえてスルーしておく)。
 杜撰を承知で象徴的に見れば、ジャーマンロックとデトロイトテクノとに挟まれた八0年代初めという時代にひっそりとこの世に生まれていたマニュエル・ゲッチングのE2-E4という架け橋的な作品は、「電子音を使って演奏される音楽」と「演奏のないプログラムされた電子音による音楽」とのはざまで、「演奏のないプログラムされた電子音による音楽を聴きながら演奏された音楽」という新しい音楽的経験が誕生していたことの記念碑、事件としての録音、あるいはルポルタージュみたいなものとしての顔をもっているのではないかと思う。「演奏のないプログラムされた電子音による音楽を聴きながら演奏された音楽」とはまた、今日、数えきれないくらいに無数に飛び散ったさまざまな電子音響によるダンスミュージックに合わせて身を踊らせるわたしたちの身体の経験と、じかに通底するところがあるようにも感じる(ジャーマンロックとデトロイトテクノを対比的なテコに見立ててマニュエル・ゲッチングのE2-E4をそのあいだに媒介的に挟みこむ、という以上の図式はかなり安直で無理やりなものに思えるかもしれない。それはじっさいそのとおりで、ここで大雑把に掴まれた電子音と演奏との関わり方の流れのなかには、一義的には決定することのできない、相互に例外をもうけあいながら、この図式からはみでてしまう作品がいくつも存在する。だから、ここで書かれたことのすべては、E2-E4という楽曲を聴きながら感じたおもしろさを、そのおもしろさそれじたいとしては書くことに送り返すことの出来なかった者の、まったく虚構的な、苦しまぎれの息継ぎのようなものとして受け止めてもらえればいいと思う)。