クロード・シモン『フランドルへの道』

フランドルへの道

フランドルへの道

 この小説はいろんな意味でビビった。ちょっと今まで読んだことのない凄味がある。パッと目につきやすいところで文章の異様な構成みたいな部分が語りどころなんだろうと思うけど、外国語の知識もないしよく判らないのでその点はスルーせざるをえない(悲しい)。その他で気になった部分をメモがてら(とてもじゃないけど気がついた点ぜんぶを書くことは出来ない)。
 大雑把に言って、広い意味でのファミリーロマンスというものが、「パパ-ママ-ぼく」から成る三人の人物たちのあいだの葛藤だとか愛着だとか反目だとかを動因にして家族という基盤のうえに三角形の図形を描くものなのだとすれば、その「パパ-ママ-ぼく」から形づくられる家族の三角形の前史として、たとえば、一人の女を巡る二人の恋敵の男たちの形づくる、いわゆる「三角関係」の物語といったものもまた、その広義のファミリーロマンスの変奏として数えあげることが出来るのかもしれない(前者の三角形が、すでにその場に集まっている定員の中での力関係の帰結を描くとすれば、後者は、一夫一婦制というか制度としての純愛みたいなものが用意した家族の定員への参入の可否を巡る力関係を描く、みたいな。後者の「三角関係」はまた、前者の三角形の成立した後にもその上から重ね描きされることが出来るので、上記の「家族の三角形の前史」という言い方は語弊があるかもしれない。状況はもっと複雑なものでもありうる)。 『フランドルへの道』という小説の内部には、このファミリーロマンスを構成しうる「三角関係」の物語の主題があちこちに散らばされている。
 (ひとまずはいちおうこの小説の語り手と目してよい)ジョルジュという名のフランス軍の騎馬隊に属する兵士の前には、部隊の上官であり遠い縁戚関係にあたるド・レシャック大尉と、大尉の持つ競馬馬の馬丁にして競馬騎手であり行軍の従者としての勤めもはたすイグレジアとのあいだの、大尉の若い妻コリンヌを巡る三角関係めいた関係がある。また、ジョルジュにとっては母方の血筋を介して遠い先祖にあたり、ド・レシャック大尉には百五十年前の父祖にあたるレシャックという人物は肖像画の中でこめかみから血を流したまま謎めいた沈黙をつづけているのだけれど、彼の今となっては理由の知れない拳銃による自死が、ジョルジュと彼の周囲にその死の謎を巡る解釈の言説を希薄に、しかし幾重にもわたって漂わせることにもなり、その結果浮上してくるレシャックの亡霊じみた姿として、この男もまた(大尉と同様)、あるいは自分の留守中に重ねられていた使用人と妻との情事の場面に遭遇した一人のコキュであったのではないか?という強い信憑が、小説の読み手とジョルジュとに分けもたれることになる。ド・レシャック大尉の血統を中心にして時間軸の上で照応的に描かれるこの二つの三角関係(間男と妻、その寝取られた夫との三者が形づくる痴情関係)は、ジョルジュたち騎馬隊一行がその行軍の途上で宿を借りるために寄った村の一軒の民家で演じられるいまひとつの三角関係の劇(びっこの男と村の助役のあいだで妻を巡り交わされる激発寸前のいさかいの場面)を、ジョルジュの眼前の空間に近々と招き寄せることにもなる。
 『フランドルへの道』の内部に散布されているこれら三角関係の主題は、しかしそこにファミリーロマンスを呼び寄せるのではなく、むしろまったく逆に、そのような家族のドラマを流産させるようにしてテクストを形成する。そもそもここで言われる三角関係は、正しく言うならば三角関係を形成しえない反三角関係のようなもの、単純に、あらかじめ失敗した三角関係のなれの果てのようなものを指しているだろう。ド・レシャック大尉は自分の妻と従者との密通に明らかに気づいていながら、そこから愛憎や葛藤のドラマを引き出すことがまったく出来ず、戦場でのなし崩し的な自死の過程に身を晒して自分の先祖の死を(いくぶんか自覚的に、いくぶんか無自覚に)反復することしか出来ない。あるいは村の助役とびっこの男との一件にしても、テクストの過程でその痴話のドラマの内実を巡って登場人物たちのあいだに複数回交換されるどうにも要領のえない不明瞭な会話の始終を追うかぎり、そこには結局、一人の女を巡って争われる二人の男たちの正統性、家族という聖なる制度の問題の核心のごときものが賭けられているのではさらさらなく、家系を同じくした兄弟(兄妹)どうしの「雌やぎ」や「雄やぎ」がその多情な性情のおもむくままけものじみた(乱婚的な)なわばり争いでもしているかのような姿しか浮かんではこないだろう。

 家族と家系という、人間の生がそれに従って歴史の一部を形成するものとして綿々と継続されていくことの担保としてある制度を、クロード・シモンの『フランドルへの道』は、大地と自然のもつ崩壊の過程に(崩れていく死んだ馬の肉塊といっしょに)投げ込んでしまう。ファミリーロマンスはあえなく失敗する(つねに失敗しつづける)。
 にもかかわらず歴史というものが現にあるとするならば(家族や家系という擬制がまがりなりにも存続しているものとするならば)、そこではいったいなにが歴史や家系や血統のような壊れやすいものを支えていっているのか。クロード・シモンの『フランドルへの道』は、そこに「戦争」というものを差し出すように見える。

≪そして彼(ジョルジュ)の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするようにしゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者のいうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者すなわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階を通過し、(以下略)≫30頁

 戦争というものが「他人の所有しているものを横どりする」手段であるとされるこのくだりからは、たとえばジョルジュが一兵卒として参加しているこの戦争がフランスという寝取られ男とドイツという間男とのあいだで母国フランスの領土を巡って争われる戦いであったという認識が読み取られるべきなのかもしれないけれど、その種の象徴の解釈のようなはなしはおいておいて、ここではこの、「他人の所有しているものを横どりする」明らかに間男の振る舞いそのものにかかわる主題が、ファミリーロマンスという神聖でありながら空っぽでもあるような擬制のつるつるした皮膚を内側から食い破って(ちょうど死んだ軍馬のぽっかりと開いた傷の穴からどこからともなく溢れ出ていたようなあの)無数の蝿や蛆虫たち、蟻の行列のような数え切れないひとかたまりの群れをテクストへと蝟集させていたようにして*1、無数の馬丁や下男、従僕や作男、使用人たちといった間男の階級の系譜による、淫奔で多情な女たちのその夫の手からの掠取、かどわかすことの成功をつねに約束しているさまを読み取るべきなのではないだろうか。戦争が終結したのちに、ド・レシャック大尉の戦死でいったんは寡婦になったはずのコリンヌを周到にも(?)再婚させ(再び正妻の身分に座らせ)、しかるのちにあらためてジョルジュを彼女のもとへ間男の身分として姿をあらわすことを可能にし、思うさま性交をむさぼらせることになるクロード・シモンの筆致は、そのたくらみの始終を雄弁に語っているようにも思う。たとえばそこで第一に問題となるのは、ファミリーロマンスの問題を構成するはずの精神分析的な転移の課題などではなくて、一組の幸せな男女が形成しえたかもしれない(潜在的な)家族の三角形のその死角、いわば横合いから突如侵入し、女に種をつけ、聖なる三角形の底辺をいつでもいびつに歪ませる間男の、その「横どり」の問題なのかもしれない。すると、ジョルジュじしんの存在と出自もまた、あるいはひょっとしたらそのような、かつて交わされた名前も知らない間男と母親サビーヌとのあいだの姦通を証するものなのかもしれず、とすると、あずまやに腰掛けひがな一日「ハエの足跡」のように細かい文字を綴って崩れゆくだけの日々を過ごす彼の父親、溶け出しはじめた「肉塊」とも形容され、息子とのあいだにはほぼいかなる繋がりも担わされることのないあの父親もまたド・レシャック大尉に連なるファミリーロマンスの系譜にくわえられてもかまわないはずで……と、ここまで書くと妄想もさすがに過ぎる。
 ともあれ、『フランドルへの道』はいろんな意味で凄い小説だ。きりがないのでこの辺でやめとく(表象の問題のこととか崩壊の主題のこととか、まだまだたくさん触れていないことがある)。

*1:ひょっとしたらこのあたりを取っ掛かりにして、クロード・シモンのこの『フランドルへの道』というテクストのちょっと異様なまでのセンテンスの終わりのなさを考えることができるのかも知れない。