ジジェク『厄介なる主体2』

厄介なる主体〈2〉政治的存在論の空虚な中心

厄介なる主体〈2〉政治的存在論の空虚な中心

 前の巻はおととし読んだんだけど、まるっきり覚えてないのが情けない。
 ポストモダン社会に特徴的な「大文字の<他者>の凋落」だとか「父性権威の失墜」だとか「大きな物語の消滅」だとかいう事態を巡る議論は、(その手の議論にはぜんぜん詳しくないんだけど)たとえば東浩紀動物化についてのはなしなんかをちらほら読むに、監視社会的というのか環境管理的というのか、個人の主体化という経路をへないで工学的に(ちょうど牧場の牛とか羊を見回るみたいに)人間を即物的に取り扱い(同時にまた、即物的な手段で)「不過視」の囲いの中に留め置くというような、権力構造の分析を当然ともなうわけだろう。動物化っていうのはやめて正直に家畜化とでも言い直せばいいような気もするけれど、ともかく、そこではネーションとか宗教みたいな大きなイデオロギーが個人に対して規律を内面化させたり歴史というでっかい物語の中に位置づけてやったりという、主体(化)の近代的な人間化のプロセスはあんまり問題にならないと。『動物化するポストモダン』でのオタク論は、そういうようなポストモダン的な状況を反映する対応物として、「データベース消費」だったり「小さな物語」を生きるオタク的な倫理(主体化なき主体といってもいいような)の可能性が探られているんだろうけど、ジジェクの議論からいくと、そこにはまだイデオロギー批判とか主体論的な立場からつっこむ余地があると(精神分析みたいな近代的な枠組みは事態をさらに深く見通すことが出来ると)。「大文字の<他者>の凋落」というような自己再帰的な事態の全面化には、精神分析がこだわる父性の比喩にならって、享楽する超自我としての(死んだ/ことにみずから気づいていない)父の姿が裏面から浮上するという事態がともなっていると。享楽みたいな「現実なるもの」への「激しい愛着」は、ヒステリー症的主体から倒錯症的主体、原理主義からリベラリズムバイアグラからリストカットの問題まで貫いて、そこにいまだに主体の課題が横たわっていることを証している、と(ポストモダン的消費に顕著な「萌え」とかサンプリングとか「データベース消費」なんかを可能にする欲望それじたいは、ではどこから汲まれてくるのか?、みたいな問題を設定すると、たしかに動物化とか環境分析的読解の手前に主体のはなしが先行しなけりゃならないような気もする)。ジジェクのこの本の狙いはそこに「真正なるポリティクス的な行為」を貫かせる主体の道をみちびき出すことで、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で読み解いたポストモダン状況における倫理的な選択の問題とどういうふうに重なるのかな、とちょっと思った。主体の欠乏とか消えゆく媒介者とか二つの死をくぐり抜けるとか、そうはいってもジジェクはえらく生き生きとしてるわけで、東浩紀のどことなくメランコリックな(「泣き」に執着してるみたいな)情念がうっすらとはりついたような作品読解よりは、個人的には好ましい。