ナタリー・サロート『生と死の間』

生と死の間

生と死の間

 この小説は正直よくわからなかった。ヌーヴォーロマンのめぼしい作家の作品をそれぞれ一、二作ずつ読んでみたなかで、いちばん手応えが掴めない。底が見えない感じ。(平岡篤頼が解説で指摘している話法や文体論的な水準から見れば)難解といえば難解な作品なんだろうけど、そうは言ってもそこで(目に見えるかたちで)取り扱われている語彙や観念に難解なところなんてさっぱりなくて、作家が描こうとしている主題だとか筋や構成なんかにも、取り立てて人を寄せつけない難解なところがあるわけでもない。平岡篤頼は解説で、「描写する行為そのもの、描写言語そのもので成立している小説、つまり、主語も目的語もない動詞だけで成立している小説」という風に見事にこの作品の勘所を押さえた指摘をしているけれど、言われてみたらまさにそのとおりで、『生と死の間』という作品を読んでいた最中ずっと感じていた「影絵」による紙芝居でも見ているかのような視線の落としどころにとても困るあの感覚は、なるほど、「ぼく」や「彼」、「彼女」、「われわれ」や「彼ら」といった、そこで代名詞により仮に名指される固有名をもたない人物たちが、形象としての具体的な顔をそなえた人物としてはほとんど(あるいはたぶん、まったく)像を結ばないというところにあるのかな、と思った。人物のしぐさや動作、事物の様子なんかの描写はあっても、それらが有機的な流れの中でひとつらなりに繋がっている感覚は希薄で、リバーブというか残像効果のあるコマ撮りによるシルエットの映像を眺めているようなイメージがある。焦点化される場面は場面でまた、作品総体の流れのなかでの配置は別にしても、隣接しあう諸場面どうしの繋がりには緊密さのしばりがまったくない。
 ここには言葉とイメージとの連関にかかわる稀有な実践例が書きつけられているような気がするけれど、結局はさっぱりわからない。癪にさわるんで、サロートによる冒頭の見事な文章を写してお茶を濁しておく。

彼は首を左右に振る、瞼に、唇に、皺を寄せる……≪いや、どう考えてもだめだ、これではいかん≫彼は腕を伸ばす、その腕を折り曲げる……≪私はその紙を引きずり出す≫彼は拳を握りしめ、それから彼の腕が下にさがる、彼の手が開く……≪わたしは投げ捨てる。新しい紙を取る。やりなおす。タイプライターでね。いつでもタイプで。絶対に手で書かないんでね。わたしは読み直す……≫彼の顔が左から右へと揺れ動く。唇が不満そうに突き出される……≪やっぱりだめだ、また今度も。わたしは引きずり出す。くしゃくしゃにする。捨てる。そんなふうにして、三回も、四回も、十回も、やりなおすんですよ……≫彼は唇に皺を寄せる、眉をしかめる、腕を伸ばし、その腕を折り曲げ、下におろす、拳を握りしめる。