『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man』

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

 民放で夜中に放映していたころには時々見てたんだけど毎回きちんと追いかけていたわけでもなくて(ビデオがないから録画もできなくて)、総集編とはいえ今回ようやく話の大まかな流れが掴めた。DVDじたいはひとつき前に手に入っていたんだけど長い作品を見るのに必要な気力が湧かなくて放置してあった。ゴールデンウィークになって時間の余裕も出来たしいっちょ楽しんだろうとようやく見る気が起きる。昨日の0時前くらいから見始めることになって、160分もある作品だし眠くなったら中断して次の機会でもいいやくらいに思ってたんだけど、ふつうにおもしろくて眠気を覚えることもなく最後までとおしで楽しめた。思いついたまま漫然とした感想。
 この作品で取り扱われている「笑い男事件」という出来事は、「笑い男」が引き起こした事件とも解釈できるし、また、「笑い男」が追求していた事件とも解釈できるし、あるいはまた、それらひっくるめて「笑い男」を巡って起きたもろもろの事件の総体的な呼称とも解釈することができるだろう。話の流れのなかでは一応、笑い男という特定の犯罪者主体の起こした(単なる金目当ての企業テロ)事件という当初の見方から、笑い男とは実はそのような個別の具体性をそなえた実体として存在しているのではなくて状況の全体(政界人の暗殺未遂からポップアイコン化まで含めた)を指す出来事の総称をいうのが相応しいというようにその意味が書き換えられていき、しかし最後に、ふたたび「消滅する媒介者」としてのエージェント笑い男その人の目論んでいた事件の隠された本当の意図が明らかにされ、行為の主体としての笑い男が浮かび上がるという、出来事に対する誤認と訂正が繰り返される弁証法的な展開がしめされている。だから、作品のなかで登場人物によって口にされる「オリジナルなきコピーの氾濫」とはこの場合、そのようなシミュラークル状況がそこに生きる者たちの世界を隈無く染め上げているさまをひとまず真卒に認めたうえでなお、そのような足場もない浮動する状況において真正なる行為を主体としての立場からなすことが急務の課題であることが告げられるための叩き台としてあるのだろう(『厄介なる主体』のジジェクなら、それを「真正なるポリティクス的行為」と呼ぶかもしれない)。そもそもそこでは、当初の認識では事件のオリジナルとみなされていた笑い男その人の初発の動機さえネットのどこかで拾った差出人の名前も知れないメールのなかの文言にうながされたいっこの模倣行為であったことが明らかにされることになるのだから、事態は徹底されている。
 物語の中盤で、「笑い男」に勝手に同調した人々が警察庁長官みたいな人物に天誅を下すために手に手にエモノをもってぞくぞくと集まってくる場面があったけど、見かけこそ類似しているものの「真正なるポリティクス的行為」とはまったく無縁なそのヒステリー症的な行動もまた、「オリジナルなきコピーの氾濫」という状況に精確に対応した誤作動と見られるべきことを、無論、制作者たちは求めているのだろう。そこでは「大文字の他者」の崩壊が享楽に耽る超自我を呼び出して、「笑い男」という浮動するシニフィアンの群れの、現実なるものへの邁進を引き起こしている、みたいなジジェクの図式がしっくりあてはまる(物語終盤のトグサなんかも完全にヒステリー症に憑かれてる)。この場面で9課の面々が直面することになる課題はフェティシズム批判にほかならないだろう(「大きな物語」というか象徴のネットワークを補綴する偽造された補遺物としての「腐敗した政治家=父性権威」みたいな。違うかな?)。そこでフェティシズムつながりでマルクスっぽい図式をもってくれば、笑い男とは商品交換の無限に連鎖する横滑りをせき止める一般的等価形態としての貨幣である、みたいなことが言えるかもしれない。正確にいうと、その貨幣の背後にはなんにもない(無がある)という現実を隠していることじたいが、すでに(潜在的にはすっかり)知られてしまっている貨幣のようなものなのかもしれない。
 たとえば押井版の『イノセンス』とか、同じ神山監督の『攻殻機動隊solid state survivor』なんかを見た印象で、本作同様に貨幣的な主題を担わされている(物象化された)子どもたちという形象との差は、良い悪いは別として(もちろん「悪い」んだけど)、そこでの子どもたちや老人たちがフェティッシュ(排泄物って言ってもいい)としてまがりなりにも経済領域を潤滑に運行させていたことに比べて、この作品での笑い男という現象にははるかに社会に対して壊乱的なところがあるようにも思う(リミットに触れかけていて、そこに古い象徴空間を解体する「消えゆく媒介者」が介入しうる余地が生じている)。

 思いつきの印象に、ついでだからさらに漠然とした印象を重ねてみる。主体におけるラディカルな政治的行為みたいなメッセージが前面に押し出されている本作だけど、そこに盛られた「書かれた言葉」みたいな細部の主題から眺めてもちょっとおもしろいかもしんない。トグサの捜査はサリンジャーの小説を丹念に読むことから進展をみせて、授産施設のロッカーでの笑い男にまつわる落書きにうながされつつ、そこから村井ワクチンの接種者リストのファイルを入手することによって後戻りできない核心部へと進み、最終的に素子とアオイとの対話で、事件のすべての起源にあった一通のメールによる告発文の存在が知られることになる。現実なるものの侵入と象徴のネットワークの壊乱が描かれるこの作品の世界のかたわらにつねにそのような言葉が随伴していた事実には、物語の構成要素以上にはそこになんの意味もないんだろうけど、この細部はちょっと魅力的に思えてしまう。なにかもっと使える手立てはなかったろうか?

 ……ともあれ、おもしろいアニメだった。