フローベール『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

 大きな声じゃ言えないけどフローベールを初めて読んだ。本じたいはずいぶん前に買っておいたんだけど床の上に積ん読したまま五年以上放置してあったもの(だもんで、古本みたいに全体に黄ばんじゃって、あちこちに赤錆みたいな染みとか浮いてる始末) 。しかしこれはさすがにおもしろかった。もっと早く読むべきだった。1857年刊行の小説らしいけど、なるほど今だにあちこちで言及される理由がなんとなく飲み込めた。
 農事共進会のパートに見られる二重の「誘惑(呼び声)」の並行的な処理の鮮やかさとか、馬車の中でのレオンとエマとの情交の光景を濃厚に匂わせる黙説法の巧みさなんかには唸るしかない(風景から細々とした事物の細部、登場人物たちの心理まで、万事よろしくその描写に貪欲に飲み込んでいく作家の健啖な筆致が、しかし肝心のそこにいたっていっさい沈黙してしまい代わって通り一辺の街並の描写や御者の心情描写に終始するとき、しかしその遠回しの奥床しさこそが、読み手のイメージの中に、いまその場で隠されている光景を窃視することをいやがうえにも掻き立て、言葉とそれを読むこととのあいだの共犯関係を強烈に立ち上がらせる、みたいな)。最近読んだ小説から思い出せるところで例を拾えば、たとえばこういう技巧は『覗くひと』のロブ=グリエあたりにもちゃんと受け継がれているような気がする。ただし黙説法というものがその最大の力を発揮する場面とは結局、法とか検閲に対する描写の側からの局地戦的な抵抗として組織される場合にこそあるのかな、とも思う。そうでないかぎり(単なるマニエリスムに堕した場合)、渡部直己がかつて口が酸っぱくなるほど繰り返していたように、囲われた馬車の車室という密室(空虚な中心)を巡ってその周囲をぐるぐる優雅に旋回するだけの、イメージによる動員とか煽動の手段として誤用されるのが落ちということになるのだろう。そこでたとえば、女の股間に顔を埋めて女性器を鷲掴みにするクロード・シモン『フランドルへの道』のジョルジュのあの直截さ、ブツをまさぐる手つきのその遠慮のなさは、この文脈の中で、黙説法的な技法の弱みと裏腹の繊細さとたくらみから一定の距離を取って、小説言語によるある種の野蛮の擁護として読むことが出来るようにも思う。
 性的な事柄に関しては周到にその核心の(身体的な)描写を回避していたフローベールだけど、砒素をあおって臨終の床につくエマの死の場面ではけっこう容赦ない。あれほど美しかった女をベッドの上でのたうちまわらせ、嘔吐と錯乱のうちに醜い死への過程のもとへ長々と書き留め、あげく、エマの怖れた醜い「盲人」の歌声の響きによって最期の宗教的改心をも台無しにし、死後の横たわる寝姿も不様な崩壊の過程になかば放置する恰好だ。寝床に吐瀉物を巻き散らすことになる惨めなエマの最期の姿からは、『モデラート・カンタービレ』のデバレード夫人を襲ったあの「吐き気」の、さらに徹底して容赦のない、はるかな先取りを見て取ることも可能かもしんない(デバレードの嘔吐がブルジョワ的な領域を分断するようにして生理学的な外部から彼女の口元へと流れ出して死と狂気の方向へと女を導いていたとするならば、遺体となったエマのぽっかり開いた口元から不意に溢れ出して付き添い人の服を汚そうとする「黒い液」は、つまるところは徹頭徹尾生者の課題である「死への衝動」すらがもはやすっかり清算されてしまった、事態としての即物的な死そのものの染み跡をしか残さないだろう)。
 あと気になったところと言えば、やっぱり冒頭に現われる「私たち」という語り手の身元に関する謎だ。あれが単なる作家のうっかりミスなんだとしても、とても魅力的な染みのように見えてしまうから不思議だ。フローベール研究の世界ではどういう解釈になってるんだろう?
 しかし単純に感情移入みたいなレベルで、エマはとても魅力的だ。訳者の生島遼一が解説で紹介しているチボーデという人のフローベール論の、「シャルルの欠点は《そこにいる》ことだ」という言葉は、まあエマにこそ相応しいように思う。シャルルが《そこにいる》ことは、愛人の男たちにとっては無論のこと、妻エマにとってすらほとんど問題ではなかったろう。エマにとって《そこにいる》ことが本当に疎ましかった存在とはエマじしんにほかならなかったのではないか。エマという人はどういう境遇にあったってみずからの周囲に欠如感を産み出してしまう、存在それじたいが過剰のかたまりのような女だろう。もちろん、エマのそこがいい(薬剤師の親父とかも全篇つうじていい味だしてる)。