デフォー『ロビンソン漂流記』

ロビンソン漂流記 (1951年) (新潮文庫〈第190〉)

ロビンソン漂流記 (1951年) (新潮文庫〈第190〉)

 『オデュッセイア』から漂流つながりで『ロビンソン漂流記』を読んでみた。
 トロイア戦争の英雄オデュッセウスが、オリュンポスの神々や土地の求婚者たちとの社会的関係においていわば「物財を持たない交易者」として漂泊していたとすれば、そもそもが(黒人奴隷の買い付けと販売という)あからさまに商人資本的な欲望に駆り立てられて航海に出たロビンソン・クルーソーは、そこで交換に失敗した交易者として無人島での幽閉生活を生きることになる。
 ロビンソン・クルーソーを襲う事態の顛末にはいくつかのアイロニカルな(と言って大袈裟なら、ちょっとお伽話的な)反転の諸契機があり、そこでは、交換に乗り出した者が致命的にそれを失敗し、しかしその結果、交換(交易)それじたいの意義がそこで失われたことがはじめて認知され、あるいは「諦念」の契機がもたらされ、ところへ事態はさらに裏返って、最終的には、交換の当初目指していた利潤が思いもよらない形でさらなる規模でもって交易者の手元に還流し、彼を再び交換の生きた社会的サイクルに送り返すことになる。たとえば無人島での生活においてロビンソン・クルーソーを悩ませるものとは、手仕事的な労働に役立つ生産手段(スコップとか鋤とか)だとかちょっとした余暇に費やされるための嗜好品や贅沢品のたぐい(パイプや酒とか)の欠乏や欠如だけではなくて、社会的(資本主義的)な交換が絶望的に途絶した状況で自給自足の生活を覚悟したときにはじめて意識されることになる、身の回りにさまざま溢れようとする過剰な物たちの氾濫にも似た事態でもあることがここで確認されることになるだろう(野鳥の群れや猫の繁殖がロビンソンのささやかな畑の作物に与えうる被害だとか、無人島にやってきた望まれない客人たちへのアンビヴァレンツな感情、人一人が一年間それを口にして生きていく上ではもはや過剰と見なされる穀物の収穫量の、その生産に割かれた労働力支出の無益さの認識、とか)。27年の無人島暮らしの中で、聖書読解と日々の神学修養により練り上げられたロビンソン・クルーソーの諦念は、欲望の分量カテゴリー(何を欲望するかってことではなく、それをどれだけ欲望するかってことを判断可能にするア・プリオリな形式)がつねにすでに社会的な欲望によって構成されていたことを発見する、いっこの超越論的批判に強いられて掴み取られたものであったろう*1(なんか大袈裟すぎる言い方だけど)。
 外的な偶然(事故)によって交換が停止したとき資本の内発的な増殖運動も停止する以外にない(諦念がもたらされる)。しかしまた、同様にアクシデンシャルな別のできごとがその場合は漂流者を島から救い出すとき、交換は諦念の強度に見合った莫大な差額を利潤として彼の懐の内に残す(つまるところプロテスタンティズムの倫理といってよいもの。よりよくおのれの致富衝動を懐柔しえた者が結果的により多くの富を得る、みたいな。金の斧と銀の斧のお話だとか舌切りすずめの童話の教訓)。そこでは諦念(欲望の限定的な断念)こそが、無限に更新される欲望の増殖過程のもっとも強固なドライヴたりうるという弁証法の秘密が明かされているだろう(まあ端的に「理性の狡知」と言ってよいもの)。その意味で、無人島に30年近くものあいだたった独りで閉じ込められてありながらこの孤独な王=虜囚――農耕者にして牧者、建築家、製パン業者、狩猟者、船乗り、あるいは教育者、宣教師――は、その間一度として資本主義の外へ出ることはなかったと言ってよいだろう。
 ロビンソン・クルーソーの諦念とは、運命の偶然性を受け入れることとその偶然性を合理的理性によって積極的に計算可能性の光のもとに引き入れることとの妥協的な折衷案として自家製神学を形づくっている。たとえば「悪いこと」として、「私は救出される望みもなく、この絶島に漂着した。」。それに対する「良いこと」として、「しかし私は生きていて、船の他の乗組員は全部溺死した。」。あるいはまた「悪いこと」、「私には、口を利いたり、私を慰めてくれたりする仲間が一人もいない。」。「良いこと」、「しかし神は船を海岸に非常に近く寄せて下さった。そのために私は多くの必需品を手に入れることができて、それで足りないときはそれを用いて不足を補い、一生暮らすのに困らない。」云々。現在の境遇にとって「悪いこと」と「良いこと」とを正確に把握し逐一分割しながら算定され、作成されていく、この運命の貸借表のたゆみのない確認作業は、なるほど、一身にして矛盾なく宗教者であり商人でもある者に相応しい所作であるだろう。主体であることとは、ともかくは取りあえず、そのような貸借表の作成者であることを意味するのだろう。

*1:という意味で、ロビンソン・クルーソーのこのカリブ海に浮かぶ無人島(曰く、「絶望の孤島」)は、いっこのまったきユートピアである事実は疑えない。社会的な存在としての人間はかつてそのような交換のない世界に生きたことは一度として無いし(と言うよりも、正確には、「無い」ものと信じられねばならないし)、同じ意味でそのようなユートピアは今後も、永久に、無いものと想定されねばならないだろう(本当のところは、「無いものという想定」じたいが無いものとされねばならない。「狼に育てられた娘」のもたらしたスキャンダルを思い出してよいかも知れない)。しかし、であるが故に(思惟の中にしか存在しないことの、その積極的な存在理由を考えてみるために)、一度はロビンソン・クルーソーのこの無人島のことを考えてみる必要があるようにも思う。そういうものを考えてもいいと思う。