クロード・シモン『三枚つづきの絵』

三枚つづきの絵

三枚つづきの絵

 テクストの構成の全般的な解題にかんしては、いくつかの見逃すことのできない細かなディテールまでしっかりと押さえている平岡篤頼の解説が簡にして要を得ている。四つに断片化されたそれぞれの筋(パート)の進行をきちんと腑分けして再構成してくれており、かつ作品の勘どころであるそれらのパートの相互的なメタ言及の仕掛けまで分かりやすく指摘してくれている。ただしそこはまったくの難無しというわけじゃない。一つ疑問を挙げるとするなら、平岡さんの解説ではテクストのいわば数学的関係は充分に解明されているとしても、その力学的な関係のような場面への説得力に欠けてしまっているように思える。
 指摘のとおり、この作品の説話的な組成は四つの部面によって区切られている(区切られることによって相互の地平にはじめて浸潤しだすことが可能になっている)。平岡解釈にならってそれら四つの部面をそれぞれここでも、「豪華ホテル」、「谷間」、「煉瓦塀」、「サーカス」のパートとよんでおく(命名はそれぞれのパートにおける叙述の主な舞台に因っている)。前三者のパートの、めいめいそれじしんとは異なる残りの二者との関係は、ひとまずメタレベルとオブジェクトレベルとの一方通行的な「組み込み」の関係を形作っている。「谷間」のパートの仮設劇場でかかっている映画や納屋に貼られたポスター、二人の少年の隠し持つフィルムの断片は、「豪華ホテル」と「煉瓦塀」のパートで描かれることになる情景を現実のレベルから映画というフィクションのレベルに措定するものとして参照の対象となっている。同様に、「煉瓦塀」のパートで糠雨の中行われる若い男女のセックスの背景には、「豪華ホテル」のパートで演じられることになる中年俳優たちの映画撮影の挿話が、まさに今現在上映中の作品として二人の営みを鼓舞するかのように裏手の映画館から漏れ出る音声となって響き続けることになるし、当然のようにして映画館の扉の脇には「谷間」のパートで展開される「女中」の快楽と罪を主題にしたポルノまがいの悲劇映画のポスターが「次週上映」の予告を掲げつつ貼り出されている。高校生の息子の仕出かしたスキャンダラスな事件を揉み消すために大金を積み肉体まで差し出した美貌の男爵元夫人は、「豪華ホテル」の一室にしつらえられたベッドの上で寝乱れた放心のさなかにありながら、「煉瓦塀」の前で繰り広げられる男女の情事が描かれる読みさしの小説を終始手放そうとはしない。あるいはまた、同じ一室の続き部屋にあるテーブルの上で、相応の見返りを受け取り夫人に融通をはかったはずの中年男の完成させたジグソーパズルが「谷間」の風景を形作っているさまを、読み手はそこに確認することになる。
 それぞれのパートにおける叙述の現実性は残りのパート二者をフィクションのレベルに送り返しつつ、別の諸パートにおける叙述の現実性においてはフィクションのレベルへと送り返されながら、ボロメオの輪のような三幅対を書くこと=読むことの運動の中で形作っている。ここでは、生の現実は余剰物(ブルーフィルムさながらのメロドラマや通俗小説のようなぶっちゃけあってもなくてもよいもの。しかし、現にあってしまったもの)としてのフィクションを対象として所有し支配するけれど、同時にその現実の統合性が保たれるためにはフィクションの側から別の、いまひとつのフィクション(余剰物)それじたいとして所有され、見られ、読まれねばならないという、相互にメタレベルに食い込み合う事態が告げられているようにも思われる(その意味でメタとかネタと呼ばれるものとベタな現実との差異は、存在はするけどけっして明視し画定することはできない)。平岡篤頼の言うテクストの「組み込み」とはたとえばこのような垂直的な水平性の現れた事情を指しているんだろうと思う。しかしその指摘がちょっとスタティックな図式に見えてしまうのは、クロード・シモン『三枚つづきの絵』という作品の三枚の絵(「豪華ホテル」、「谷間」、「煉瓦塀」のパート)の「組み込み」の関係を丁寧にすくいあげてみせる一方で、ほかならぬ平岡さん自身も充分気付いていたはずだけど、「サーカス」のパート(員数外=四枚目の絵)の現前ぶりの不可解さ、特異さをほぼ手付かずのままスルーしてしまっているところにあると思う。
 「谷間」のパートで「女中」と「イタ公」がセックスに耽る納屋の壁板、そこに貼られたポスターの存在だけがかろうじて明示的に上述の「組み込み」の関係を指示する「サーカス」のパートの、道化師の演じる笑劇的な出し物を断続的に追った叙述は、それ以外のパートからの孤立が際立っている。むろんヌーヴォーロマンの作品らしく、そこには形態だとか色彩、運動やセリフとかいった言語やイメージを介した表層の横滑り的な換喩の(前後で隣接するパートの言葉との)響きあいがまったく見られないってわけでもないんだけれども、にしても、上述の三つのパートを結び付ける「組み込み」の例からの乖離がただごとではないことも確かだろう(くどいようだけど、平岡篤頼がこれを見逃していたはずはないと思う)。……三つのパートをそれぞれ頂点に見立てて三角形を作り、各点からちょうど等しい距離だけ隔たった点に「サーカス」のパートを据えてみると道化の動き回る活動圏(リング)に内接する幾何図形ができあがり、図形は「谷間」のパートで少年の一人がノートに描く図柄を紋中紋として相似形を形作っており(ry……ゴニョゴニョ。

 この作家の小説を読んだのはこれでまだ四作目だけど、以前の作品で類似の形象に出会った記憶はない。そこで読まれることになる道化の交換不能な躍動の、不吉で不埒なさまは、クロード・シモンのテクストの内部ではこれに未だに明確な名前を与えることができないもののようにも感じる。