アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』

ゴーレム 100 (未来の文学)

ゴーレム 100 (未来の文学)

 アルフレッド・ベスターの作品はSFにはまっていた学生だった頃に読んで以来(『虎よ、虎よ!』と『分解された男』を読んだ筈だけど、情けないことにすっかり記憶から消え失せてしまってる。だからあの当時の自称「SF者」だった自分は、単にはしかに罹っていたようなものだったんだろうと今にして思う。当時いくばくか摂取した筈のSF成分みたいなものが現在の自分にほとんど残っていないのがこれまた情けない)。
 22世紀の都市世界(「ガフ」)の猥雑な雰囲気だとかそこで繰り広げられる探偵劇の筋立てからは、やはりその昔読んだブーダイーン世界を思い起こしたりした。
 8人の女たち(「蜜蜂レディ」)の欲望が呼び出した集合的無意識の悪魔が召喚者の制御を超えた領域で暴走を開始するというような作品の骨子はフランケンシュタインの物語をたやすく想起させる(……という事実は作中人物によってすでに自覚されている)。そうは言いつつ、恥ずかしながらフランケンシュタインのお話は読んでいないんで確かなことは何も言えないんだけど、ポーの怪奇ものの短編のいくつかで繰り返されるモチーフ、「殺されてその死を隠蔽された者の遺体や幽霊が殺害者の目の前に回帰して最終的に彼を破滅に追いやる」というような古典的なフォーマットがジャンルとしてのホラーの基礎にはあるだろう。この作品でゴーレム100と名付けられているイドの怪物の繰り返されるガフへの現前(襲撃)は、舞台となるその世界を解体の危機に晒しつつも最終的にそこにまったく新たな別の世界の再創造が賭けられているという点で、ジャンルとしての(ホラーとはまた異なる)SFの多幸症的な一典型をここにも見ることが出来るかもしれない(「多幸症的」とは言ってもなにもユートピアみたいな別天地ののどかな幸福感なんかとはまったく無縁で、ここでは人はバンバン酷い殺され方で死んでいくし主要な登場人物の死があっけなく一行で片付けられたりするしで、ベスターの昂ぶった筆致やタイポグラフィカルな遊びの氾濫にまで乗り移ったそれは、祭りの前のやみがたい躁状態にも似たものだろう)。その意味で、夢の言語を思わせる意味の圧縮された「ガフ語」の創造だとか無意識の光景を延々数ページにわたってグラフィック化してみせたりとかで鬼面人を嚇かす仕掛けに満ち溢れたけれんみたっぷりの作品ではあるけど、まあとても真っ当なSF小説だと思う。傑作とか一大奇書とかいう評価はさすがに言い過ぎのように思う。