ヴァージニア・ウルフ『波』

波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

 ここでは6人の男女の吐露するモノローグの連鎖と交錯からだけで、幼年時代から老境へと至る彼らの人生がどのような軌跡を刻んだかが(彼らが何を欲望し、祈念し、その結果何をなしえ、何を掴み取り、あるいは何に決定的に躓き、ついに何がその生に残ったのかが)描かれている(推移する人生の時間にそって区分されたそれら諸モノローグのブロックの合間に、これを架橋する、浜辺に打ち寄せる波の或る一日の様子を叙述する散文詩っぽいパートが挟まれている。『灯台へ』の放置されて朽ちていく無人ラムジー邸の描写のくだりにも似て、この断続するパートに読まれる一連の描写も身震いするほど素晴らしい)。モノローグの交換(あるいはしばしば、交換=交歓のし損ね)だけで一篇のけっして短いとは言えない作品を形作り、しかも単調さの印象なんかとは程遠い融通無碍な文彩でそれを支えきって、なおかつ作家の初発の目論みをついに充全に表現しえているという意味で、ここには控え目に言っても傑作という評価に相応しい達成が示されているだろう(「傑作」とかいう空っぽで抽象的な評語からはもっとも遠い場所であられもなく、それこそ無限に寄せては返す波の運動のようにウルフのことばは繰り述べられていくわけだけど、しかしじゃあそれをほかに何と言えばよいのかと考えると、にわかにことばを失ってしまう)。幼年期の思い出を分かち合う6人の人物たちがその後の道行きのめいめい固有の生において掴み取ったもの(取りこぼしたもの)が何だったのかは、これを手短に要約することなどは到底できない。人が50年なり60年なりの時間的持続の内部で生きる(生き続ける)ということの、その短くはない持続に本質的な屈曲や切断、見通しのけっして立たない晦冥さの幕のようなものがそこには終始たゆたっていて、ヴァージニア・ウルフの『波』という作品のことばのいっさいはその不可入な生の暗さの中で溺れながら泳ぎ続ける人たちの不様な(しかし、むろん、切実さには欠けていない)姿をこそ描こうとしていたのだろう(だとすればなおさら簡明な要約など許されないだろう。ウルフの筆の運びはそこに、6人の生の、複雑に絡み合い、またすれ違わざるをえなかった図柄を描いて、人生の時間の粗筋を鳥瞰的に書くことの無意味さや不可能さをこそ告げているように思う)。ここでは海の波のはらむ反復する膨脹と収縮の運動に翻弄されて波間に束の間輝く「魚のヒレ」のようなものとしての人の生と死が一挙に掴まれている。ウルフの筆致の技巧はモノローグする人物たちのその個別性(単独性)を見事に描きわけてみせているけれど、個別にさまざま課されるその戦い――戦い、誤解を恐れずあえて言ってしまえば、これはやっぱり、一人の人間に固有の身体と精神というもっとも身近で親密な場所で、しかしただ一人の救援もなく、もっとも寄る辺なく戦われる内在性と受動性の根底で交わされる戦いだったろう――そのもろもろのウルフ的戦いが、別々の戦端を切り開き別々の戦線を駆けずり回りながらも、終極的には同じひとつの戦いを巡る無数の戦局であったことをことばの力によって浮かび上がらせてもいるだろう。人の生にとって本質的に内在的で根底からの受動を強いるその衝迫をたとえばここで死(への雪崩れ)とかと名付けてしまうことは簡単だし、このようなありがちな主題を巡って適当にことばを書き連ねていくこともまた(ごく通俗的なレベルで言えば)たやすいことだろうけど、そのような(ある種手垢に塗れてしまった題材を巡る)仕事が、しかしこういうきわめて高い水準で圧倒的な筆のもとに追い詰められていくそのプロセスの逐一を見届けるということは、また格別の、ちょっと他では経験しがたい緊張を読む者に強いることであるようにも感じる。いろんな意味で破格の作品。