マルグリット・デュラス『ヴィオルヌの犯罪』

ヴィオルヌの犯罪 (河出文庫)

ヴィオルヌの犯罪 (河出文庫)

(……)そこでわたしは、台所の窓を開けて、誰かが聞きつけてわたしを追っ払いに来るように皿を割るんです。ところが突然目の前に彼女が現れて風通しをさえぎり、わたしが皿を割るのを眺めて、微笑を浮かべ、ピエールのところへ知らせに走って行くんです。どんなことでも、彼女はピエールに知らせてたんです。そしてピエールがやって来ると、さあ、庭へ行きなさい、なんです。

そうしてしまいに、わたしは庭が好きになっちゃったんです。

 二十年以上にもわたって同居してきた聾唖者の従姉妹を殺害し、遺体をバラバラに切断したうえ陸橋から鉄道の貨車に遺棄した女(クレール・ランヌ)への事件発覚後の聴取と一件の間近にあった幾人かの人物たちへの聴聞の始終を三章立ての対話劇として描いた小説(フランスで現実に起こった事件をモデルに取材したものだとのこと。邦訳のタイトルにある「ヴィオルヌ」とは事件の舞台となる村の名)。
 娘時代の過去の激しい恋愛のすえに致命的な、取り返しのつかない躓きを経験してしまったことによって以後の生を狂気の不穏な兆しのなかで生きる女として、クレール・ランヌという人物は作家に固有の類型的な造形において、『モデラート・カンタービレ』の主人公アンヌやロル・V・シュタイン夫人といったデュラスのそれまで描いてきた女たちの後身として読まれることが可能だろう(67年発表のこの作品に続く71年の『愛』において、女は、もはや名前も失ってしまった何者かとしてすでにある種の囲い込み施設へと緩やかに拘束されてしまった存在として現れる)。クレールという女の存在があのアンヌやロルのその後の姿を写すものとして了解することが可能だとしても、むろんそこには、クレールがアンヌやロルからさらに遠く隔たって(彼女たちとはまた別の)切断線を再び一歩、大きく踏み越えてしまった光景が読まれることになる。バーでの対話相手となる男をみずからの死の積極的な協力者として誘惑し馴致しながらついにそれに失敗したアンヌとの対比が見やすい対照を形作っているとおり、『ヴィオルヌの犯罪』におけるクレール・ランヌの狂気はここで他者の殺害という攻撃的性格を持つものとして誤作動し、アンヌやロル・V・シュタインが取り憑かれた狂気とは際立った差異を示しているかのように見える。
 クレールの手にかかりランヌ夫妻の自宅の地下室で殺害された被害者女性マリー=テレーズ・ブスケは、その建前上の立場は食客めいたランヌ家のお手伝いに過ぎなかったとはいうものの、聾唖でありながらランヌ家の家政一切の実質を切り盛りする「女王」のような存在でもあった事実が訊問の言葉の中で告げられる。小説の言葉が開始される以前にすでに死んでしまっているこの女性の姿は直接的には作品に現れることはないにもかかわらず、インタビュイーたちの証言の中で語られる、その体重にして100キロは下らなかったという極度の肥満体が、読み手の意識に対し不可解なまでに強く印象づけられることになるだろう。じっさい、殺害後にマリー=テレーズの切断遺体を陸橋にまで運ぶクレールは、9回にもわたってその重荷を担いで夜中のヴィオルヌを歩かねばならないはめになったこと告白している。マリー=テレーズを特徴づけるこの肥満体は、被尋問者たち(ことにクレール)にとってはある種の動物への連想と不可分離的に結びついているさまが彼らの言葉から読み取ることができる。彼女の後ろ姿が「小さな牛」のような印象とともに眺められていたという事実はピエールとクレール、ランヌ夫妻双方の供述の言葉に繰り返し読まれる。あるいは、マリー=テレーズ亡き後のウ゛ィオルヌの邸宅が、家政の監督者なきまま埃と脂に塗れ放題で放置されるしかないであろう事実を嘆いて、クレールはそのさまを「豚小屋」さながらであることを認める(それがあたかも「物置」のようなあり様であるのではないか?という、この場合しごく真っ当な尋問者の語彙を念入りに撤回してクレールが口にする「豚小屋」というかなり特殊な一語は、事態が、マリー=テレーズがそこに居なくなったことそれじたいに結果することによるのではなく、むしろそこが、まさに「小さな牛に似ている」豚のように肥えた女の住まう場所だった事実が彼女の不在の時間に否定しがたく明るみになったことをクレールに告げているだろう)。
 マリー=テレーズ・ブスケの体現するもう一つの(しかし彼女の肥満体質と密接に相関した)側面は、彼女がヴィオルヌの外国人(ポルトガル人たち)と結んでいた性的な関係の放縦さによってあからさまに周囲に告げる、その享楽的な水準にあるだろう。端的にそこで、マリー=テレーズという女は享楽の占有者(ヴィオルヌにおいて享楽をひそかに盗んでいる者)として、あたかも対象aの地位にあるかのように観念されている。クレールは語っている。

事件当夜、彼女が叫び声をあげ、わたしは、これじゃとても眠れないと思いました。アルフォンソが彼女といちゃつきにそのへんに来てるのではないかと思いました。(中略) わたしは降りて行きました。アルフォンソはいませんでした。[217頁]

 マリー=テレーズの極度の肥満がクレールの連想の内部で象徴的に形成するこれら動物性や卑猥さの印象は、だがしかし、それじたいとしては彼女の従姉妹殺しの動機を形作るものでは何らなかった点は充分に留意しておいたほうがよい。もう少しだけ小説の言葉を追いかけてみよう。

 マリー=テレーズの鈍重で自足した、ある種の家畜にも似た動物的な姿はまた、二十数年にわたって彼女が一手に引き受けてきたランヌ家の食事、ことにクレールの中で強い嫌悪の対象となっていた脂ぎった「ソース漬けの肉」の連想とも強く結びついており、この連想はまた、食事後の庭における嘔吐としてクレールにおいて身体的に表出される(この嘔吐は『モデラート・カンタービレ』のアンヌを襲ったあの内容物を持たない、止むことのない吐き気にまで系譜を遡ることができるだろう)。そして嘔吐の主題はおそらく、それが身体から無理矢理に引き剥がされるものであること、意味の内容を奪われた音声であること、二つの特性を介して、叫び声や呻き声、あるいはどことも知れない場所から漏れてくる不吉な「もの音」といった幻聴的な体験の主題群へとじかに接続していこうとする。クレールは語る。

それに地下室のことはなんの説明にもなりません。あれは、バラバラにする仕事を片づけるための、とてつもない力業だけだったんです。力業以外の何ものでもなかったんですが、死ぬ思いの、わめきたくなるような仕事でした。わたしは気を失ったに違いありません。[209頁]

 ここで叫び声を上げるよう不断に強いられている者は、厳密に、いったい誰なのであろうか? クレールなのか、殺されたマリー=テレーズなのか、それともまったく別の誰かなのか? 午前四時の「地下室」の暗がりは線分と測量可能性の明確な境界線を決壊させヴィオルヌに溢れ出そうとしている。

わたしが夜分ヴィオルヌへ出て行ったのは、そこでいろんなことが起こって、それを確かめなきゃいけないと思ったからなんです。
方々の地下室で、撲られて半殺しの目に会ってる人たちがいると思ったんです。ある晩なんか、いたるところで火災*1が起こりかけましたけど、いいあんばいに雨が降ってきて、それを消してしまいました。
――誰が誰を撲ってたんです?
――警察がヴィオルヌの地下で、外国人か、ほかの人たちを撲ってたんです。そういう人たちは、明けがたになると、またどこかへ行っちゃいました。
――あなたはそれを見たんですか?
――いいえ。わたしが行くとすぐにおさまっちゃいました。
でも、わたしが勘違いしてたこともしょっちゅうで、ひっそりと静まりかえってもの音一つしないことも多かったんです。[213頁]

――頭が狂ってるなと自分で感じるんですか?
――ええ、夜中にそう感じるんです。いろんなもの音が聞こえるんです。人が撲られてるような気がしてくるんです。そう思うことがありました。[216頁]

 上記引用部からフロイトの有名な論文(「子どもが叩かれる」)を思い起こすことは、デュラスのテクストにおいて起こっている事柄の余りに切迫した内実に即して不当に慎ましやかさを欠く態度だろうか? 精神分析の知見にかんして精確なことは何も言えないことは承知の上で(しかし行き掛けの駄賃めかして)触れておけば、ともあれクレール・ランヌのこの言葉からは、そこで(地下室で)「警察」によって「撲られ」、不穏な「もの音」を聞き漏らしようなく、絶え間なく上げ続けているものが、ほかならぬクレール自身の精神と身体から響く軋みであったとしても、これはまったくおかしくはない、という事実を指摘できるだろう。

彼女は、聾唖者で、耳の聴こえない巨大な肉の塊でしたが、時にはその体から叫び声が出てくることがありました。あの叫び声は、喉じゃなく胸から出てくる声でした。[207頁]

 クレールのマリー=テレーズの姿を評する簡潔な言葉はここでおそらく、「叫び声」や「肉の塊」といった語をバネに、事態が、性愛の官能や拷問の苦痛、他者の享楽への憎悪や反動的で自罰的な衝動へと多方向的に伸びていっているさまを示唆しているかもしれない。それとはまた別にこの言葉は、地下室で起こった事柄の、その沈黙によって埋葬されてしまった叫びの特異な性格をも明らかにしようとするものとしても聴き取ることができる。そのような文脈において、被害者マリー=テレーズ・ブスケが極度の肥満体であったことのみならず、同時に彼女が聾唖者でもあったという作中の事実は大きな意味を持つのではないか。その「埋葬された叫び」とでもいうべき事態を語るクレールの言葉は、これまで別の文脈のために引用してきたいくつかの文の裏面にも見逃しようもなく、削り残されたシールの痕跡のようにしつこく貼り着いている。よってここでは、最後にもう一箇所だけ彼女の短い言葉を引用しておくことに留める。

(…)あの地下室で起こったことを彼らに知らせてやりたいわ。ほんの一分でも地下室にいたら、黙ってるようになり、この件について一言も言えなくなるでしょうよ。

 ……ここから、以上の読みの方向を、クレール・ランヌの「地下室」と「庭」という二つの特異な場所へと差し向けていくこともできるかもしれない。しかしそれは別の機会、別の課題として今は譲るとする。


――享楽を貪る者、屠殺される家畜にも似た獣、叫び声(-沈黙のうちに無かったものにされた-)、炎、誰のものでもない者の庭、地下室……。ともあれ(それがいまだ不可解なままであり続ける断片としてであれ)、少なくともこれだけのものは『ヴィオルヌの犯罪』を読む者の手の中に残る。

*1:前後の文脈をいっさい欠いてかなり唐突に口にされるこの「火災」の一語は、3年後の『愛』においてより明確に可視化され、さらに大掛かりな炎のもとに焚きつけられ煽られて、舞台となるS.タラの街に立ち上ることになる。