蓮實重彦『「赤」の誘惑』

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

 買ったきり長いこと棚の奥にしまいこんであったものをようやくサルベージ。抜群に面白かった。というか、面白いとかいう以前に、我が身をかえりみて(自意識過剰ぎみに)慄然とした。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』とか『オデュッセイア』を対象にした章などはとくに。まあ今更あらためてしおらしい顔などはつくらないでおく。
 こういう批評にじかに接してみると、なにやら漠然と蓮實重彦という存在を評する際に口にされる「エリーティズム」だとか「貴族主義」みたいな伝説めいた風評はまったく根も葉も無いデマなんじゃないかなとあらためて思う。テマティスムの方法にある種の厳密さというものがあるんだとすれば、それはそこに書かれていないことに関してはみだりに口にすることを禁欲するっていう掟めいた了解によるのではないか。この本のごく通俗的な(デバガメ的な)レベルから見た読みどころの一つは何と言っても「ラカンVS蓮實」の一戦が読める「X 「赤」の擁護」のくだりにあるだろうけど、そこでの蓮實によるラカン批判において描かれるこの精神分析家の「理論」的雄弁(憶断的な多弁)へのほとんど軽蔑にも等しい存念とともに蓮實的テマティスムの沈黙における厳密さの擁護があるのだと思う(たとえば蓮實がこの本の中で繰り返し自他に念押しする「語彙論的な羞恥心」という倫理的な要請が、ことによったらそれを聞く者に「エリーティズム」やら「貴族主義」といった下から目線の誤解を抱かせているのかもしれない。なにものかに対して抑圧を感じるということは、それじたいとしてはけっして悪いことじゃない筈なんだけど、この手の一方的な誤解による単なる鬱屈の表明は、それを口にする人の顔立ちを極度に寒々しい、強張ったものにするようにも思う)。
 ここで言われているような禁欲的な緘黙はテマティスムにおける厳格さの片面であって、他方にはまた、他人のテクストをダシにして自前の「理論」を語りたがる理論家たちの自堕落に傾きがちな雄弁とはまったく無縁の領域で「フィクション」が(「赤さ」なりなんなりの)細部の緊密な連繋を組織しつつおのずから自身を語り始めてしまうといった不埒な事態が確かにあって、そこでは「フィクション」を語る者はまずなにより、テクストが主題論的な位相で言い募ることばの逐一を忍従にも似た姿勢で聴き取ることの厳格さを強いられることになるだろう(沈黙を守ることの厳格さと、語られたことばのその現前の厳密さがある)。「語彙論的な羞恥心」とはそこで選択された禁欲的態度によって広い意味での主体を立ち上がらせる筈だけれど、テマティスティックな受動の身振りは、極限的には、(能動的に読んだり書いたりすることがいつでも可能だと信じられている)この主体の身分を希薄化させるように迫ってくるのだろう。という意味合いで、二つの異なる位相に属する厳密さに真っ二つに引き裂かれて、一身にして二身を生きるかのようなテマティストの半身はカチンコチンに凍り付いているかのようだ。もはやどうでもいい話だけど、蓮實重彦が「エリーティズム」や「貴族主義」とは程遠いと思われる所以も、一に「フィクション」というものに対するその堅持される態度の厳格さにかかっている筈で、そこでは「書かれていないものは読めないし、書かれてしまったことは読まれねばならない」という(原則的には)ごくごく当たり前の、読むことのいわば平等主義といったものが終始貫かれてあるだろう。たとえばラカンの説くポーのテクスト(「盗まれた手紙」)に関する文章はラカンという固有名抜きには読まれることは不可能だし、最終的にはポーのテクストはそこで消去されてしまっていよいよ彼の「偉大さ」とその精神分析的理論ばかりが屹立することになるだろうけれど、蓮實的テマティスムにおいては、原則的にはポーのテクストからの、慣習的に「蓮實重彦」と呼ばれもするあの固体の(束の間の接触と滞在に次ぐ)緩やかな退場こそが目論まれてある筈で、それはテクストをあるべき場所へと帰し、同時にそのことばの場を不特定多数の読み手へと解放しようとするものだろう。「エリーティズム」や「貴族主義」的な姿勢にとどまるのがこの場合どっちなのかは言うまでもない。(まあ「原則」としては、なんだけど。「原則」としてそうなんだけど、実際は誰もが蓮實さんのように読んで書けるなんてことは無論なくて、そこにはテマティスムの名において地べたにまで降下した筈の民主主義がぐるっと反転して近代以前の王権制に繋がってしまうかのような驚きがある。蓮實の抑圧といったものがあるとするならここをおいてほかにはないだろう。人は憚ることなくこれに激しく嫉妬すべきだと思う)。

 大づかみに「フィクション論」などと呼ばれもする、それじたいめちゃくちゃ広大な理論と実践の形作る領域を巡るここでの蓮實重彦の仕事は、厳密さの二つの型に従って二つの方向へと一挙に、同時に、進行を開始していくことになるように思う。「フィクション」とその秘密を解明しようとする「理論」とが取り結ぶ(取り結びそこねる)さまざまな言説的場面を渉猟しながらこの本の論理が語っていることとは、乱暴に要約して言ってしまえば、「フィクション」に接する者には二つの運命があるということなのだろう。まず一方では、「フィクション」を前にあらずもがなの「無償の饒舌」によって自粛の厳格さを堅持しえなかった者たちがひきもきらずに辿っていく、それじたいが出来の悪い作りごとのような無自覚さのもとに進展する「理論」の「フィクション」的風土への転落を個々に跡付けていく筋道がある。しかし返す刀で、細部(「赤」)の主題が多方向的に連繋しつつ繁茂させるそのテクスチュアルな織り目の厳密な連動ぶりに目を奪われながら、「フィクション」の「混沌として退嬰的な」状態をそれそのものとして宙吊りの身を崩さずに受け止めようとするテマティスムの倫理の実践が展開される。テマティスムの厳密さが二つの態度(一つの営為と一つの反-営為)に一挙かつ同時に就くとするなら、ここでは「フィクション」もまたそれに相応しく二つの顔を持って私たちの前に姿を現しているのだろう。

 ……たとえばまた、蓮實的テマティスムの厳密さ云々を議論するならばここで採取される「赤」を基調にした主題群のあまりの恣意性についてはどのように考えるのか?(「赤さ」は作品の解釈にとってはたして普遍性をもちうるか?)みたいな批判がありうるかもしれない。しかしもうその疑問じたいがすでに罠であって、そう問う人は逆にみずからに「では主題論にとって真に相応しい普遍性を備えた主題とは何か?」と問い返してみればいいと思う(告白を強いるようで悪いけど)。というか、そのように疑問を投げ掛ける人は、すでに、潜在的に、みずからの問いに(「赤」以上に)「相応しい」なんらか「真の」答えを持っている人であるに決まっているだろう。「フィクション」のことばの遥か手前で得手勝手に捏造された「真に」「相応しい」「普遍的」な正解を抱いて、しかし結果「ミイラ取りがミイラになる」を実地に演ずる恰好で、おのれの手が取りこぼした「フィクション」の登場人物の位相へと回収されるほかなかった人たちを蓮實重彦が『「赤」の誘惑』においてなんと総称していたかは、こんなところであらためて繰り返す必要はないと思う。つまり、蓮實重彦のテクストの厳密さは批判者への批判をすでに孕んで、それを読む人をこそ読み返そうする。その可逆的な眼差しの過酷な関係の力学こそが「フィクション」と呼ばれる経験のひとつの特質であったことも、これまたあらためて繰り返す必要はないだろう。