J・G・バラード『結晶世界』(創元SF文庫)

 一冊読み終えるのに一週間くらいかかってしまった。もはや遅読病だ。別に速読の必要なんて感じないけど、せめて文庫本なら二、三日で読み終えたい。と、思ってみた。


 バラードの小説風土を襲う「破滅」の様々なタイプは多岐に渡るけど、この作品では、タイトルどおり世界が結晶化(水晶化)していく過程が描かれる。世界の結晶化は、まさに今、アフリカの何処かで進行しているわけだけれど、バラードランドにおける「破滅」とはいつだってあらかじめあるバラード固有の内的風景(インナースケープ)の外在化に他ならないのだから、事態の未曾有の「進行」とは見知った何かの再帰的な到来であるし、登場人物たちの体験する煉獄巡りもまた、ひょっとしたらもはや観光とか遊覧と見分けがつかないくらいレジャーに酷似した何か、親しげな場所と時間への再訪(ないし帰還)であるとすら言えるだろう。バラードにおける「破滅」といったものが、それがテキストの中で現に進行中であろうとなかろうと、「すでに破滅してしまった」過去完了として諒解されざるを得ないのは、そのようなわけであるからではないだろうか。破滅による回生の技法*1、みたいな。
 この小説でバラードが創案している世界の「水晶化」とは、生と死、光と闇、時間と空間……、みたいな対立する(と、人が普通思い込んでいる*2)二つの次元を同時に包み込み、両立させ、かつてすでにそこにあった(そして、今や人がすっかり忘れてしまっており、それが可能とすら思いもしない)その未分の時空における体験を、主人公サンダーズにいずれ恩寵としてもたらす小説装置としてある。
 アフリカの広大な密林を一日で400ヤードの速さで侵食していくこの輝ける癌細胞のような水晶化の嵐は猛烈な寒波をともなう。足を止めた者は、その場にうずくまり、眠るようにして生きているとも死んでいるとも言えない中間的な(半)死(半)生の領域で、輝く水晶の塊と化すわけだ。時間と空間は分離しがたく圧着する。
 ここでバラードの想像力(妄想)の固着が乳児的(胎児的?)なステージからその活力を汲み上げている、とは穿った見方に過ぎるだろうか? それがあまりに短絡的な、安易な見立てであったとしても、しかし作家の創造の手並みがその読み手の見立ての短絡と安易に足並みを合わせて進んでいく義理などないことは言うまでもない話であって、人は、その、作者の運筆が一行ごとに更新していく文章の運びの跛行を、その難儀な踏破の一部始終を、視線の動きの中でつぶさに目視しておくことが出来る。それがただただ正しいか、あるいは間違っているか、そのような余りに貧相な籤引きごっこにかまけていられるのも、読み手の至当な権利とやらであり同時に不当な桎梏でもあって、しかし無論のこと、人は、権利とともに桎梏をも享受する覚悟は出来ているだろう。また、書く人もまた、ショートカットに道行きを見定め、安易を見越して筆を起こしもして、なおかつ本意か不本意か知らず、そこで座礁に乗り上げて当座思いもよらぬ見事な足取りを紙片に刻むこともあろう。
 ……憑き物が落ちました。何が言いたかったのか? つまり、『結晶世界』という小説における破滅するバラードの世界は、幼児的なものへと内的に退向する世界なのでは?ってはなしだった。で、退向のメタファーとしてある世界の結晶化(破滅)を描く作家のいささか安易な(?)見立ては、その文彩の素晴らしさをことごとく帳消しにしてしまうものなんかでは、けっしてない、ってことだった。この作品を未読の人なら、一度実際に書物に目を通して欲しい。’66年にバラードの描いたビジョンの壮麗さ、煌びやかでグロテスクな景色、その細部へまで抜かりの無い緻密なイメージの作り込み。別に皮肉でもなんでもなくて、ハリウッドの通俗ディザスターものに優に匹敵する仕事が40年前のイギリスで達成されている事実に、ちょっと驚くと思う。


 メタファーってことに関しては、この小説には実は、より重要な、デリケートな問題が含まれている。
(時間切れにつき、続きは後日)
(考え直して、やっぱりここまでで止めておくことにした。問題が繊細すぎて頭がうまく働かない。準備が必要だと感じる)

結晶世界 (創元SF文庫)

結晶世界 (創元SF文庫)

*1:ただしこれは、破滅をくぐり抜ける、とかいう英雄的な身振りではさらさらなくて、破滅の場にたたずむ、居着くという、ひとつの不行動として達成される

*2:と、おそらくバラードは思い込んでいる