ロブ=グリエ『迷路のなかで』

迷路のなかで (講談社文芸文庫)

迷路のなかで (講談社文芸文庫)

 物語の内容水準に限った感想を書き留めておく(翻訳の平岡篤頼さんが、この本の解説で、「一番表面の層」とよぶ、おそらく皮相な?水準)。
 物語の内部における主人公の兵士の彷徨は、亡くなった戦友の遺品である靴箱のような包みを彼の父親へと手渡すため、その待ち合わせの場所を探すことに規定されている。箱の中には何が収められているのかは、兵士の物語の進行中には、開示されることがない(それが戦友の残した身の廻り品であることが明らかにされるのも、物語のほぼ終盤のことで、この意図的な読者への情報不提示が、兵士の堂々巡りの道行きに小さなサスペンスのような、秘匿と隠蔽のニュアンスを生み出している)。包みの中身が詳らかにされるのは(というより、実際のところは、あえて詳細を探るまでもないような、卑近でありふれたその正体が明らかになるのは)、兵士の物語が彼の不慮の死によって終わりを迎え、作品の語り手である「私」が冒頭の一行目以降ようやく再登場する、作品も最末尾にいたってからのことだ。戦友の生前に彼の元に送り届けられた、田舎に住む許婚の娘からの、手紙や金時計や指輪、銃剣といったごくありふれた身の廻り品のたぐいが、語り手によってそこで簡潔に明らかにされる(ポーの有名な「盗まれた手紙」と好対照をなすというか。すなわち、かしこでは、国運を左右しかねない「重大」なスキャンダルのタネの「蒸発」が、こちらでは、ごくごく「瑣末」な私信の、つねに人目を惹きすぎる「露呈」が主題となっている、という意味で)。
 戦友の身の廻り品の流れを追えば、それは、許婚の娘から戦友へ、ついで彼の死後、戦友から主人公の兵士の手へと渡り、兵士から戦友の「父親」へと送り届けられるべき途上で兵士の死によりデッドレター(宛先不明郵便)となり、まったくの偶然の事情により、作品の話者「私」の手元へと流れ着く。「にわか医師」として兵士の最期にかかわったこの「私」は、この先の遺品の取り扱いについての明確な意思表示を慎重に控えている。それは、兵士が交わしたという電話での口約束を順守して(また、亡くなった兵士の遺志をも汲んで)戦友の「父親」に手渡されるべきなのか、それとも、許婚の娘へと再び返送されるべきなのか、しかし、許婚の男の死を知らされてすらいないかもしれない彼女には返送の許されない事情が考えうる、あるいは、遺品は当然にも遺族である「父親」が所有する権利を有する、しかし、いまや「父親」を探すことじたいが不可能に等しい、……云々。話者「私」の思惑の遅々とした逡巡が繰り延べられるこのくだりには、しかし、戦友(アンリ・マルタン)の「父親」を巡る不明瞭な、胡乱をあえて装っているかのような、奇妙に不鮮明な記述が見られる。

≪包みを郵送するよりはきっと、それを自分の手で持参し、おきまりの手心を加えながら、本人の手に直接わたすほうが好ましいにはちがいない。じっさいその娘は、まだ許婚の死を知らされていないのかも知れない。父親だけが、病院に電話したときに事実を知らされた。ところが実の父親ではない――というか法律上の父親ではない、とにかくなんらかのかたちで完全に父親ではない――のだから、かならずしも彼が、娘と交渉があるとはかぎらず、それどころか彼女の存在さえ知らないかも知れない。だから彼が、郵便事情の回復と同時に、彼女に便りをするという理由もない。(212頁)≫

 「実の父親ではない」、「法律上の父親ではない」、あるいは、≪いまとなってはもう、マルタンという苗字でさえない父親≫(212頁)、息子の許婚の「存在さえ知らないかも知れない」父親、とはしかし、一体どのような身分の持ち主の「父親」なのか、俄かには飲み込みがたい(……再婚した母親の夫が、何らかの事情で籍を離して、息子には他に係累もなくて、とかいうことだろうか?)。辻褄は合わせづらいが、ともかく、兵士の当てにしたこの「父親」の存在が、かなり怪しげな身分であることは確かなのではないか。「父」に向かって送還されるべき筈のものだった遺品(手紙一式)のことばのいっさいが、途端に、胡散臭い身元不明の男の不在によってあらかじめ規定されていたかのような不穏な印象を漂わせはじめる。


 唐突に話題を変えてみる。ジジェクがどっかで触れていたような気がするけれど(めんどくさいんで確認はしない)、たとえば、「王」というものの定義には、「王とは、われわれの上に立つ者である(われわれを統治する者である)」という命題と、「王とは、われわれがその膝下に跪く者である」という命題と、二つの型が考えられるだろう。カントの議論を参照すれば、前者は「王」の主語概念においてあらかじめ考えられていた内容を判断形式に展開しただけのトートロジックな分析的判断にあたり、後者は「王」の概念を拡張して臣下(主語の外部)の側から関係づけられることによってはじめて可能となることで、総合的判断を構成するだろう。マルクスにおける貨幣フェティシズムへの批判だとかイデオロギー批判的な文脈から見れば、後者にかんしてのみ、正しい、有意味的な判断を構成できる(「ユニコーンは角のある馬である」というような分析的判断は、それじたいではいかなる矛盾も抱えていない。ので、「ユニコーン」の概念そのものを言説の外部から否定すること、矛盾を展開することはできない)。「王」を否認しようとする者は、だから、「王」の概念の外部であるその臣下の姿勢をこそ狙い撃たねばならないだろう。「王」とはそれそのものとして見れば(臣民からの拝跪と信仰がなければ)、無に等しい。無が存在するということを否認する臣下の(分析判断的)姿勢は何らかのフェティッシュへのベタな信仰を隠すことができないだろう。


 ……で、最後にまたロブ=グリエの小説のはなしに戻る。無理矢理に以上の寄り道に繋げるならば、ここでは、「王」=「父親」はすでにして「完全に父親ではない」、無に等しい何かにすぎないものであるとする。その無にすぎないものが、兵士の道行きと運命を物語の運行中つねに背面から操作していたとする。そこでは、無が存在するということが(ベタに)否認されるわけではないし、かといって、あえて無を、それが無であるがゆえに身振りとしてのフェティシズムをなぞるというようなシニカルな(メタを気取った)姿勢が取られることもない。
 無にすぎないものとは、しかし、やはり、無そのものとは違う何か、ほんのちょっぴりの何かでありつづけるものではあるだろう(靴箱のような包みの中の、瑣末でどうでもよい、ありふれた私信の束や古びた金時計、指輪や来歴の知れない銃剣のような何かとして、兵士の、無益なものに終わるかもしれない歩行を、促しつづけるだろう)。