こうの史代『街角花だより』

街角花だより (アクションコミックス)

街角花だより (アクションコミックス)

 単行本の初出一覧の記述を信用するなら、表題作である「街角花だより」という作品は、大きく区切って、つごう三回にわたる雑誌掲載(連載)という経緯の末に、今あるこの単行本『街角花だより』に読まれることになるまとまったひとつの姿として、読者の元に届けられていることになる。
 雑誌掲載の古い順に挙げれば、まず「明石版」という95年から96年にかけての9回にわたる連載があって、その物語があらためて仕切りなおされた恰好で、「日和版」の2003年の6回の連載があり、その「日和版」の前史をなすようなエピソード(二人の主人公の出会い)を描いた「日和版(コスモス日和)」の、2007年の読みきり作品の発表がある。この三つの作品群が、単行本では新しい順に配置されて、「街角花だより」という作品の総体を形づくっている。「明石版」と「日和版」の物語には、設定の上で、主人公たちの名前だとか(明石うらら→日和うらら、清川凛→清水凛)、彼女たちの履歴にちょっとした相違があるくらいで、基本的には、同じ一続きの物語の、それぞれの別のある日々が並行的に描かれているように見ることもできるかもしれない。それはだから、一連の物語たちを連作短篇集のようにして読まれることを可能にしているけれども、作品が、こうの史代さんという作者の、そこで費やされ、そのために生きられることになった「街角花だより」という作品総体の形成の過程によって規定された痕跡のようなものにこだわるならば、これを、ひとつらなりの一個の物語として、スムースに受け止めてしまうことは難しいように感じる。この「街角花だより」という作品群をリアルタイムで追っかけていたわけではない者としては何も確実なことは言えないし、以上の初出一覧の記述を信用する以外にとる立場もないわけだけれど、見やすい事実として、作品としての「街角花だより」というこの漫画には、少なくとも、二つないし三つの入り口(始まり)があり、数の上では同じだけの出口(終わり)が孕まされているように思う。
 単純に、花屋の店長「(明石/日和)うらら」がそれになぞらえられる「コスモスの世界」へと、「てっぽうゆり」の女「りんさん」が闖入することになる「明石版」、「日和版(コスモス日和)」おのおのの物語の二度繰り返される作品への入り口というものが、まずある。くわえて、作者こうの史代にとって三度にわたるその都度の執筆の開始(再開)の場面から見れば、作品への入り口も、同様その数だけ数えることができるだろう(「明石版」、「日和版」、「日和版(コスモス日和)」)。それに対して、「店長」と「りんさん」との恋愛感情とも区別のつかない女どうしの友愛の結びつきの、緩くありながらも同時に確固とした紐帯のしたたかさが確認されることになる作品からの出口(物語の終わり)は、「日和版」、「明石版」それぞれの結びとして二つながら明示されつつも、「明石版」決定稿(「百合色の人生」第二案)の、ボツ原稿(「百合色の人生」第一案)の併録の存在によって、三つ目の出口が示されてもいる。
 作品の描き手にとっては、二つないし三つの入り口、二つないし三つの結末がある。わけだけれども、読み手にとっても同様の数の入り口と出口があらかじめあったわけではないだろう。雑誌掲載された「街角花だより」のすべてを丹念に追いかけていた者にも、この単行本で初めて読者の目の前に可視化されたボツ稿の存在はそれ以前にはなかった出口のひとつであるし、その都度の発表時期にその際の掲載作を偶然読んでいただけの者には、その数だけの入り口と出口があっただけだろう。今回の単行本ではじめて「街角花だより」という作品を知った者は、ひとつの入り口からひとつの出口へとリニアに通り抜けて行くかもしれない。そもそも、雑誌掲載という作品発表の場の即物的な形式にとても自覚的なこうの史代さんは、磨り減ったことばであえて言えば「一期一会」というような、過酷といえばこれ以上ない過酷な関係のなかでつねに読者と対峙しているはずで、作者として想定した入り口や出口が、入り口や出口としてまったく機能しないまま、あえなく流れ去っていってしまう怖れにいつでも晒されていることを(むろん、門外漢がこんなところであらためて指摘するまでもなく)知っているだろう(読者からの人気だけがいのちのような商業誌での活動は、作家としての「体質的」に、こうの史代さんのような漫画家には過酷を強いるところが大きいのではないか? そしてまた、その「アウェイ」での過酷さが彼女の作品を強く、したたかに鍛え上げていっているのではないか?)。これは極論とはまったく思わないけど、一回あたり5ページや6ページ足らずの掲載が、作家にとっての作品と読み手への入り口と出口のすべてであり、その意味で(物語とはひとまず関係のない文脈のうえで)、作品の出入り口といったものは、その作り手の好むと好まざるとにまったくかかわらず、肯定も否定も関与しようのないザッハリッヒな関係の中で、無数に(掲載のたびごとに)産み出されていくものなんだと思う。
 以前に書いたエントリで触れた、「存続する時間」だとか「幽霊的な時間」だとかいうわれながら舌足らずなこうの作品に対する感想は、個々の物語の内部でだけ適用されるべきものではなくて、作家と作品の生きる過程にも見いだされねばならないものなのではないか、とあらためて感じた(……あと余談だけど、「幽霊的」といえば、この作品集の中では「願いのすべて」という短篇が印象に残った。抽象的には、あんがい、この小さな変身譚は『さんさん録』の世界と似ているところがあるという印象がある)。

 さらに余談。「街角花だより(明石版)」の「たんぽぽの恋」というエピソード、この回は、「街角花だより」の作品世界にとってけっこう問題含みのシーンが見られるような気がする。「搦め手」から語ってみたこのエントリでは触れることはできなかったけれどちょっと気になる。


(関連エントリ)
こうの史代『長い道』http://d.hatena.ne.jp/tikoma/20060929#1159532318
こうの史代さんさん録http://d.hatena.ne.jp/tikoma/20061019#1161238096